2011年10月14日金曜日

No.49 教祖を身近に 連載 第49 三つの宝

教祖を身近に 連載 No.49 三つの宝

「教祖は、籾を三粒持って、
 『これは朝起き、これは正直、これは働きやで。』と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、 『この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。』と、仰せられた。」(『逸話篇』二九)
 教祖は人間生活の指針、生活倫理として、「朝起き、正直、働き」を教示されています。「朝起き」と「働き」について考えてみましょう。
「朝起き千両」、「朝起きは七つの徳」という諺がありますが、教祖はこのような常識的功利的な意味だけではなく、心身にとってもっと大切なことを教えられていると思われます。
 最近の脳科学による眠りや生体時計の研究をみてみましょう。
 人間の体には自律神経、体温、睡眠、覚醒、各種のホルモンなど、およそ一日の周期で変化する様々な生理現象があって、そのリズムはすべて脳にある生体時計からの命令で刻まれています。

 人間の生態時計は両目の奥にある視床下部の視交又上核と呼ばれる部分にあります。この生体時計の一日は二十四時間より約三十分長くなっています。従って睡眠覚醒のリズムは地球時間より毎日三十分づつ遅れていくので、二十四日目になると、体の一日のリズムが昼夜が逆転し、昼に体がいちばん不活発な状態になるということも起こります。しかしふだんこういうことがなく、地球時間と歩調をあわせて生活することができます。これは生体時計の周期を地球の周期にリセット(同調)させる因子があって、中でも朝の光による同調作用が効果的で、脳の視交又上核が毎朝光を認識することによって、生体のリズムを二十四時間になるようにリセットしています。夜ふかしの生活では朝より夜に自然光でない光を浴びることになり、生体時計の周期を長くし、二十五、六時間になり、このズレを夜ふかしをつづけると拡大していき、修正できないようになります。これが「内的脱同調」とよばれる慢性の時差ぼけ状態で自律神経失調症の一つである起立性調節生涯(起き上がると血圧が急に下る)、慢性疲労、抑うつ、活力消耗等の症状となっていきます。

 又朝の光には心を穏やかにする神経伝達物質であるセロトニンの働きを高める作用もあります。この物質は脳内の神経活動の微妙なバランスを保ち、これが不足すると精神が不安定になり、人間関係がうまくいかなくなってくることがわかってきています。 人間は当り前のこと思われるかもしれませんが、朝日を浴び、昼夜は働いたり、活動したりして、夜はゆっくり休むときに持てる能力を最大限に発揮できるように守護されているわけです。 次に「働き」について考えてみましょう。このシリーズNo.44「働く手は」で働く意味について述べましたので、今回はそれを補足して別の観点から考えてみます。

 これまでの労働観において働くことは生きるための単なる手段、生活の糧を手に入れるためにやむをえずしなければならないことや義務とみなされ、働かざる者にマイナスの評価が与えられてきました。これに対して教祖は「人間というものは働きにこの世に出てきたのや」と仰せられたと聞かして頂きますが、このお言葉は人間は働かずにおれない存在で、働くことは生きることと離れず結びついている人間の本性であることを教えられていると悟ることができます。

シリーズNo.44「働く手は」において「人間にとって他者から承認されることは、ほとんど本能的ともいえる根源的な欲求である」という仮説を紹介しましたが、その欲求とともに、人間には贈与に対してお返し、お礼をせずにおれないという本能的ともいえる欲求があるのではないでしょうか。

 人のものかりたるならばりかいるで はやくへんさいれゑをゆうなり 三、28
 このお歌は他人に物を借りたなら利子をつけて御礼を言い、早く返済するようにという常識的な意味の奥に、人の物でも借りたなら利がいる、まして神からの借り物となると、どれだけの利がいるか思案してみよ、という意味があると考えられます。

 人間の身体は親神からの借り物で、それは親神の見返りを求めない絶対的な無限の価値をもつ贈与であると悟りますと、感謝の気持ちが生じ、恩義に感じてお返しせずにおれなくなる、このことが「働き」、働くことの根本にあるのではないでしょうか。

 昨今、世界金融危機、世界同時不況によって、労働環境が悪化し、働くことについての、ひいては生きることそのものについてのシニシズム(物事を正面から立ち向かおうとするのを冷笑する考え方)が人々のあいだにしのび寄ってきているように感じられます。はたらくのは所詮金のためにすぎず、要領のいいやつが勝組となって得をする、正直者は馬鹿をみる社会になっている、つまり働くことが生きがいとならないと感じる若者が増加してきています。 この根本原因として、借り物を自分の意のままに処分できる自分の所有物であり、働くことは生きるための単なる手段にすぎないとの考え方や社会における生産至上主義、能力主義、成果主義が考えられます。

 本教では「身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。」(M2261)と教示されています。

 これは身体は親神からの借り物で、人間に所有権はなく、使用権しかないことと「我が理」として許されています心(自我を含む一切の精神現象)は借り物である身体、いのちに支えられて成立することを意味していると悟ることができます。私のいのちは借り物の身体に宿りますが、それは又親のいのちによって授けられたものでもあります。又社会のいろいろな人のいのちや世界の国々の人々のいのちの営み・働きによっても支えられ、食物(動植物のいのち)をはじめとするいろいろなものによって維持されています。

 それらのお金には換えることのできないいのちの営み・働きによって私が支えられている、また心を使うことができると悟りますと、心の使い方も自ずと制限され、それらのいのちの贈与に対するお礼の心づかい、働きとなってくるのではないでしょうか。

 この報恩としての働きにおいては、職業に貴賎はなく、たとえ家事労働であっても、報恩の心でなされる限り、尊いということになります。

 最後に働きに伴います与えについての神言を紹介しておきます。
 「めん/\年々のあたゑ、薄きは天のあたゑなれど、いつまでも続くは天のあたゑという。」(M21918)「あたゑというは、どうしてくれこうしてくれと言わいでも、皆出来て来る。天よりの理で出来て来る。」(M261128)「欲しいと言うてあたゑはあろうまい。心にたんのう持たねばなろうまい。」(M24520)「渡世商売という/\、一時には良いように思う。(中略)数々商法中にせいでもよいものもある。よう聞き分け。せいでもあたゑ、ならん事すれば理を添えて後へ返える。」(M31629

 格差社会といわれ、与えに関して不平等にみえる現実は確かにありますが、これについては「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。これ聞き分け。」(M25113)とのお言葉を心に治めたいものです。

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