2011年10月13日木曜日

No.42 教祖を身近に 連載 第42回 金銭は二の切り 

金銭は二の切り

命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや」、「早く、二の切りを惜しまずに施しして、身上を救からにゃならん」、「惜しいと思う金銭、宝残りて、身を捨てる。これ、心通りやろ。そこで二の切りを以て身の難救かったら、これが、大難小難という理やで」(『逸話篇』一七八)
 教祖はここで「金銭は二の切り」と教えられています。「二の切り」とは二番目に大切なもの、という意味ですが、では一番大切なものは何でしょうか。
 
古来宗教において金銭、富は卑しいもの、人の心を惑わす否定的な価値しか持たないものとみなされてきました。キリスト教では「富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」(マタイ十九章二三~二四)と教えられ、富より神の国、神の義を求めること、つまり信仰が大切なものとみなされ、金銭には消極的な価値しか認められていません。
 
仏教においても道元禅師は同じことを説いています。「学道の人(仏道を学ぼうとする者)はまず須く(ぜひとも)貧なるべし。財多ければ必ず其の志を失う」、「僧は三衣一鉢(必要最低の持ち物)の外は財宝をもたず、居処(住む所)を思わず、衣食を貪らざる間、一向に(いちずに)学道すれば分分に(分相応に)皆得益(利益)あるなり。其のゆえは貧なるが(ゆえに)道に親しきなり」(『正法眼蔵随聞記』第三、十一)ここでは学道、求道心、信心にとって財は邪魔なものとみなされています。

 世間でも「地獄の沙汰も金次第」、「金の切れ目が縁の切れ目」などのことわざに示されますように、金銭にマイナスのイメージがつきまといやすのですが、この場合金銭に対置されているのは、清貧という言葉からわかりますように、貧しくとも清らかな心、高貴な精神、「外の錦より心の錦」(M35.7.2
ではないでしょうか。旧制一高の寮歌の歌詞にある「栄華の巷低く見て」には、世間の人が血眼になって追求している富や栄達を見下ろせる高邁な精神が誇らしげに示されています。
 
またトマスモアの『ユートピア』に次のように記されています。「金や銀で大体彼らは何をつくるかといえば、実に便器である」、「およそ考えられるあらゆる手段方法を通じて、金銀を汚いもの、恥ずべきものという観念を人々の心に植え付けようとするのである」(岩波文庫)
 ユートピア(桃源郷)では、人々の心も清浄潔白であるために、もはや金銀への執着はない、と考えられやすいのですが、金銀を汚さの象徴である便器にあえて使うところに、金銀へのとらわれや嫌悪感があるように思われます。
 
これまでの見方では、現世否定の信仰や精神が金銭より大切なものとみなされていますが、金銭の価値が否定されればされるほど、その反動として最近の風潮に見られますように、金儲けを人生の目的、最高の善とする拝金主義や経済至上主義、市場原理主義がはびこったり、IT成金や勝ち組と称せられる人々が大手を振って闊歩することが助長されたりするのではないでしょうか。

 では本教ではどのように考えられるのでしょうか。
「命あっての物種」、「身上がもとや」は生きているうちが花で、死ねば終わり、というような常識的な意味で教祖が仰せられたのではなく、金銭に対置されるのは、心、精神ではなく、生命であること、生命の尊厳の前に金銭等の価値が相対化され、低いものになる、ということを教えられているのではないでしょうか。
 
わかりやすく言いますと、人間の身体は約六十兆個の細胞から成り立っているといわれいます。細胞一個の値段はつけられませんが今仮に一円としますと、身体全体では六十兆円、十円としますと、六百兆円にもなります。ということは私たちは物、財産がなくても、地位、立場、身分の貴賎に関係なく、ただ生命がある、生かされているというだけで、それだけの価値のご守護を頂いているということになります。

 このような視点に立ってはじめて、たとえ何百、何千億の富であっても、その価値が相対化され、単に第二義的なもの、その獲得が目的とされるようなものではなく、手段にすぎないもので、その得失に一喜一憂する価値のないものと受け取れるようになるのではないでしょうか。

 おさしづに「何を持って来たさかいにどうする、という事は無い。心に結構という理を受け取るのや」、「百万の物持って来るよりも、一厘の心受け取る」(M35.7.20)と教示されています。教祖は「その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった」(『逸話篇』七)といわれています。また「貧者の一灯」という言葉もありますが、これは信仰においては物、金銭は必要ではない、神への御供の多少は問題とならない、真心だけあればいい、ということを教えられているわけでは決してありません。
「一厘の心」「真心」とは常識的な意味ではなく、生かされている大恩へのせずにおれない報恩の心、無欲のたすけ一条の心であって、その心の有無が問題とされているわけで、その心がより大きければ、「富者の万灯」のほうが「貧者の一灯」よりはるかに尊く、神に受け取って頂ける場合も考えられます。

「さあ~~実を買うのやで。価を以て実を買うのやで」、「実と言えば知ろまい、真実というは火、水、風」(M20.1.13
 これは真実の心があれば、親神の真実の御守護があることを教えるお言葉ですが、「価」を命の代価と考えますと、それは命がけ真剣なたすけ一条の行為であるとともに、命の身代わり(身代とは財産の意味)としての金銭でもあると悟ることもできます。
「二の切りを以て身の難救かったら、これが、大難小難という理」とは金銭によるおつくしによって救けて頂けるということですが、これは救済には金銭が絶対に必要で、金銭がないと身の難は救からない、金銭の御供えが多いと、より多くの御守護を頂けるということでは決してありません。

 また救済において金銭は不要であるということでもありません。金銭はあくまで手段、人と物、人と人をつなぐ働きをするもので、報恩の心を持って、物を生かし、人を喜ばせ、人をたすけるために使われてはじめて生きたもの、積極的な意義をもつものとなり、親神に受け取って頂けるようになります。そのような金銭は形はなくなっても「目に見えん徳」(『逸話篇』六三)となって身につき、必要なときに「月々年々余れば返す」M25.1.13 )と教えられますように、お与え下さり、様々な御守護を頂く元となります。教祖が貧に落ち切る道中によって教えられたことの一つの意味は、たすけ一条の一つの形としての、生かされている大恩への報恩としてのおつくし一条であったと悟らせて頂けると思われます。

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