働く手は
「奉公すれば、これは親方のものと思わず、蔭日向なく自分の事と思うてするのやで」「我が事と思うてするから、我が事になる」「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらくと言うのや」(『逸話篇』九七)「働くが楽しみ」(M24,11,28)
教祖は労働における心の置き所について、このように教えられています。極めて意義深い画期的な内容になっていると思われます。
これまでの労働観を概観してみましょう。
ギリシャ時代において労働は、真理を観ること、テオリア(観照)を妨げ、理性の眼をくもらせるものとして卑しめられ、奴隷におしつけられるべきものと考えられていました。完全な人間は貴族で、労働せず、閑暇をもち、政治を動かし、闘技に明け暮れ、戦争に参加し、精神的作品を生み出す、と見なされてきました。
旧約聖書の「創世記」ではアダムとイブがエデンの園の「善悪を知る木」から実をとって食べた罰として苦しい労働を課せられ、それに耐えることが罪の償いと解されています。このような見方は哲学者マルクスの労働観にも影をおとしているように思われます。「労働の疎遠性は、物質上またはその他の強制が何も存在しなくなるやいなや、労働がペストのように忌み嫌われるということに、はっきりと現われてくる」(『経済学哲学草稿』)「疎遠性」は労働によって人間が疎外される(労働が強制された働き甲斐のないものとして感じられること)ことによって生じると考えられていますが、極めて精神的なものですから、共産主義経済体制になり、富が平等に分配されるようになったからといって簡単に消えるものではありません。
マルクスは生産物、生産効率と結び付けられた労働を問題にしても、労働そのもの、働くことの意味は不問に付されているように思われます。
宗教改革者のルターは、労働を罪の償い、罰の遂行としてみるのではなく、職業(Beruf)は、神の召命、神から授けられた使命(berufenには任命する、天職を授けるという意味があります)で、労働という行為そのものに積極的で神聖な意義や価値を見出そうとしています。
東洋の労働観に目を転じてみましょう。
東洋においては西洋のように、自然を征服して支配下におくという考え方はありません。江戸時代初期の鈴木正三の「農業はすなわち仏行なり」、労働することの中に仏法がある、との見方や道元禅師の「日々の労働(食事をつくることなどの雑用を含む一切の仕事)が即修行である」、「ただひたすらに働くことがそのまま仏の行である」という労働観にみられますように、自然との一体感や絶対的な世界との接触が労働において重視されることになります。
では一体人はなぜ働くのでしょうか。
賃金や財産という生活の糧を単に手に入れるためと考えますと、巨億の富をえても尚働いたり、無報酬の仕事を喜んでする人がいることの説明ができません。最近特に問題になっている市場原理主義とは、拝金主義に他ならず、金儲けを目的にして、労働を単なる手段とみなすところに生まれてきます。
この他にも労働の意味を道徳に求める考え方もあります。「労働こそ、美徳であり、善である」との勤労道徳は、社会において否定することはできませんが、道徳によって労働を基礎付けることは、そこにはかえって強制感、抑圧感、働く者と働かざる者との優劣や善悪の価値判断がつきまとうように思われます。憲法第二七条「すべての国民は勤労の権利を有し、義務を負う」にみられます「義務としての労働」も人は働かなければならない、と命じるだけで、働くことの意味は不問のままです。
教祖が月日のやしろになられる以前に、ある怠け者の作男を導かれる逸話があります。教祖はこの作男を見捨てることなく、いつも「ご苦労さん」と優しいお言葉をかけられます。それに対して「作男は、初めのうちは、それをよい事にして、尚も、怠け続けたが、やがて、これでは申訳ないと気付いて働き出し、後には人一倍の働き手となった」(『教祖伝』十九,二十頁)と伝えられています。教祖に徳化され、作男が働かずにおれない気持になったと考えますと、働くことは生きる欲求とともに人間の根源的な欲求であり、人間が社会的存在としての人間でありうることの条件であるという意味をもっているのではないでしょうか。
労働は個人が自分の利害だけを考えて行動しても、必ず誰かのため、他人のためにもなります。自分の満足を目指すものでありながら、他人の欲求を満たすものともなります。当人が意識しなくとも、自分のための行為が他人の欲求をみたすのに役立っている。つまり互いに依存しあっていることが労働の大切な一面として考えられます。
「なにかよろづのたすけあい むねのうちよりしあんせよ」(四下り、七つ)「我がの事人がする。人の事我する。これ道理やろう」(M32,12,19)は正にそのことを教示されていると悟ることができます。
教祖は「商売人はなあ、高う買うて、安う売るのやで」(『逸話篇』一〇四、一六五)と教えられていますが、これは最近の商法にみられます薄利多売を示唆されているわけでは決してありません。薄利多売はどこまでも利益を目的とした商売のあり方を示すもので、そこでは労働はあくまで単なる手段となっています。
「高う買うて、安う売る」とは、問屋、顧客に感謝して、喜ばせることを第一に考え、自分の利益は後回しにすることで、それが共に栄える商売の道、働くことの本質であることを教祖は私たちに教えられているわけであります。「はたはたの者を楽にするから、はたらくと言う」とはまさにそのことを意味していて、働くことによって他者とともに自分もまた成り立つという、人間存在の根源的なあり方を教えられていると考えられます。
評論家の小浜逸郎氏は「人間にとって他者から承認されることは、ほとんど本能的ともいえる根源的な欲求である」という仮説を前提にして次のような見解を示しています。
「他者から承認されたいという欲求を満たすための第一条件は、エロス的な他者(家族、恋人、友人等)との関係がうまく保たれること、第二条件は社会的な他者(他人、仕事相手、組織内の人々等)に向かって投げ入れた自分の行為が、確実に、良い報いを得ていること、他者によって承認されていると実感できることである」(『人間はなぜ働かなくてはならないのか』)
これによりますと、働くことの本質は、働くことによって得られる人間の相互承認、存在確認ということで、これが根本にあって、その結果として働く喜びが生まれたり、金銭の授受が成立するということになります。
この二条件に親神によって生かされていて働くことが出来ることを加えますと、生かされている大恩への報恩が働くことの根底に据えられて本教の労働観が成立するのではないでしょうか。
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