2011年10月14日金曜日

No.45 教祖を身近に 連載 第45回  親孝行 

親孝行

「あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで。」(『逸話篇』六二)
「救からんものを、なんでもと言うて、子供が親のために運ぶ心、これ真実やがな、真実なら神が受け取る。」(『逸話篇』十六)
「親孝心、又家業第一。これ何処へ行ても難は無い」(M35,7,13

 親子断絶、家庭崩壊が叫ばれるようになり、親子間の殺人事件が増加しつつある昨今、親孝行は封建的な倫理にすぎず、もはや死語となりつつあるものにすぎないのであろうか。まず孝の意味について考えてみましょう。

 親孝行という言葉は儒教の「孝」の一つの重要な要素であり、古代中国において「孝」は先祖をまつってその志を受け継ぐことで、先祖祭祀と関わる徳目と考えられていました。先祖の志を伝える人は親に他ならないので、親によく仕える、孝行すること〔「大孝は、終身、父母を慕うなり」『孟子』「大孝は親を尊ぶなり」『礼記』〕が「孝」の一番大切なこととみなされたわけです。
「孝」は儒教倫理の中心となる思想で、現代でも中国において、親孝行は重要な徳目となっています。

 仏教は元来出家の教えで、家を出て、家族の絆を断つことによって救済が説かれますので、本来先祖供養や親への孝行は考慮されないことになっていますが、儒教の影響を受けて中国ではインドにはない「偽経」である「父母恩重経」(父母、特に母親の恩がいかに広大なものかを説いて、親孝行をすすめる内容)等がつくられたりして、仏教説話においても、最近では親孝行が説かれるようになっています。

 キリスト教においては仏教において否定されている愛が強調され、個人は家族をこえて、直接的に神と関わることになりますので、親孝行などは「私がきたのは、人をその父と、娘とその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである」(マタイ、十章35)「私より自分の父や母を愛する者は私にふさわしくない。私よりも自分の息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイ、十章37)と述べられていることからもわかりますように、批判的に考えられています。

 現在の日本において親孝行が軽視されている原因は、家族観の変化と個人主義にあると思われます。日本の現代の家族は法的には個人としての男女の結びつきに基づく夫婦を柱とするもので、これまでの親子関係を柱とする家族とは根本的に異なります。後者では必然的に子孫という生命の連続や先祖祭祀を前提とするのに対して、前者では夫婦の幸福が優先されることになり、核家族化しやすくなります。このために親子の絆が弱くなったり、先祖からの生命のつながりの意識がうすくなったりしやすくなります。

 また個人は西欧では家族をこえて直接的に神に関わるのに対して、日本ではキリスト教のような唯一絶対の神をもたない以上、個人は神を畏れることなく、宙に浮いた存在となり、必然的に利己的な存在になってしまいます。日本人の深層意識では親子中心の家族観をもっていながら、現実生活においては西欧の物まね個人主義に基づく夫婦中心の家庭生活を送っていることから、様々な親子問題が生じてくることになり、親孝行も衰退していくように思われます。

 本教では親孝行(心)はどのように考えられているのでしょうか。
「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで」(『逸話篇』一〇四)本教では神は親なる神で、紋型ないところから人間をつくられたばかりでなく、今も十全の守護をもって、子供である私たちの身の内に入り込み、陽気ぐらしができるように親心をこめて日夜お守り下さっています。

    月日にハせかいぢうゝハみなわが子    

    たすけたいとの心ばかりで      (八,4)

    にち~~にをやのしやんとゆうものわ

    たすけるもよふばかりをもてる
                     (十四、35)
 従って本教の親孝行(心)は、本質的には親神の親心、御恩にお応えすることで、この一つの具体的な行為が、肉親の親、理の親への孝行ということになります。この両者への孝行が親神への報恩の心からなされるとき、親孝行が真に全うされることになります。

 ところで本教の親孝行はさらに広い範囲をもつもので、親神から見て、兄弟姉妹である人間がたすけあうことが、親神の願い、頼みであり、それに応えることが、両親への孝行とともに大切な孝行であると考えられています。

     なさけないとのよにしやんしたとても 

     人をたすける心ないので    (十二、90)
 
     これからハ月日たのみや一れつわ

    心しいかりいれかゑてくれ   (十二、91)

    この心どふゆう事であるならば

    せかいたすける一ちよばかりを
                   (十二、92)

 次に「親孝心、家業第一」の意味を考えてみましょう。三十才未満の人への「おかきさげ」に次のように諭されています。
「日々には家業という。これが第一。又一つ、内々互い~~孝心の道、これが第一。二つ一つが天の理と諭し置こう」

「内々互い~~」を親子の相互のあり方とかんがえますと、これは「家業」とは現代では道一条を含む仕事一般のことで、親子ともに生かされている喜びを感じて、仕事を通して世のため、人のために働く、また子が親を慕い、親が子に親心をかけ成人へと導くことで、仕事と親孝心が親神を介して、報恩、たすけ一条につながって、一つになることを意味しているのではないでしょうか。

「皆、をやの代りをするのや。満足さして連れて通るのが親の役や」(M21,7,7)と教示されています。両親、理の親が子に対して「満足さして」「をやの代り」をして子の丹精をする、子は親の恩に報いるべくつとめる、これが「互い~~孝心の道」の意味ではないでしょうか。

 また次のようなおさしづがあります。
「今日も機嫌好う遊すんでくれたなあというは、親孝行~~と言う」(M37,3,29
 親孝行が二回もくりかえされ、しかも親孝行と「遊すんでくれた」、遊びが結び付けられています。「陽気遊び」「よふきゆさん」(十四、25)「よふきなるゆさんあすびさしますと 月日さまよりやくそくをなし」(和歌体十四年山沢本)という人間創造の目的に「遊び」を明示する言葉もあります。

 親孝行と「遊び」の結びつきについては、次のような悟りもできるのではないでしょうか。
 陽気について「神が連れて通る陽気と、めん~~勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。」(M30,12,11)と諭されています。
 また「陽気遊びとは、目に見えたる事とはころっと格段が違うで。」(M23,6,20)とも教示されています。
 「遊び」とは労働と対立するような行為の形式、内容ではなく、あくまでも心の問題で、自由な心、執着のない心、真実の誠の他人を思いやる心、陽気な楽しい忘我の心等を意味するのであれば、それらの心が親の思いにかなった、親に喜んで頂ける心であり、そのような心で日々生活することが、親孝行につながることを教えられているのではないでしょうか。

「難しい道はをやが皆通りたで。をやの理思えば、通るに陽気遊びの理を思え」(M21,
10,12) 

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