2011年10月13日木曜日

No.43 教祖を身近に 連載 第43回  前生のさんげ 

                     前生のさんげ

  『堺に昆布屋の娘があった。手癖が悪いので、親が願い出て、教祖に伺ったところ、「それは、前生のいんねんや。この子がするのやない。親が前生にして置いたのや。」と、仰せられた。それで、親が、心からさんげしたところ、鮮やかな御守護を頂いた、という。』(『逸話篇』一七二)
 
『広辞苑』には懺悔は、さんげ、ざんげとも読まれ、過去の罪悪を仏または人に告げること、罪過をあきらかにして悔いること、キリスト教で罪悪を自覚し、これを告白し悔い改めること、と説明されています。これに対して本教の「さんげ」はさらに深い意味をもっていると思われます。三つのポイントをおさえてみましょう。
 
  まず第一は、「さんげ」は出直しを前提としていますので、過去の罪悪の悔い改めといっても、今生にとどまらず、前生における心遣い、埃、いんねんの自覚、反省が求められる点にあります。逸話中の親子の前生の関係、親の前生の通り方について『正文遺韻抄』では次のように説明されています。

 親は父親で、十年前に妻と死別します。手癖の悪い娘は前生ではその父親の妻で、前生父親は相当な暮らしをしているのに、盗みを重ね、妻がそのことを嘆いたり、恨んだりするうちに死に、今生では娘となって生まれてきた、父親がそのことを心からさんげして、娘の盗み癖が治った、という話です。つまり「さんげ」とは、この場合娘の姿に父親の前生の通り方が示されていると信じ、それを心からお詫びするということになります。
 
                一れつにあしきとゆうてないけれど 

                一寸のほこりがついたゆへなり       (一、53)
 
   おふでさきには確かに罪とか罰、業、宿業というような宿命論的な言葉はありません。「一寸のほこり」と教えられていますので、簡単にとりのぞくことができるように思われますが、最初は「一寸のほこり」でも、何回も生まれかわりするうちに、掃除を怠ると、かなりの量の埃、いんねんとなり、払うことが難しくなり、益々埃を積み重ねていくことになります。

 おさしづに「よそのほこりは見えて、内々のほこりが見えん」(M24,11,15

       「人が障りがあればあれはほこりやと言う。どうも情け無い。日々の理が辛い」                                                              (M22,10,9
  
    「身の内苦しんで居る処を見て尋ねるは、辛度の上に辛度を掛けるようなもの」                                                               (M25,11,119)
と教示されています。
 「尋ねる」とは相手の埃を尋ね、詮索することと考えますと、埃、いんねんの教理はともすると相手を責める道具として使われやすいのですが、あくまで自分の日々の心遣い、前生を含む過去の心遣いを反省するために使うべきであることを厳しく戒められていると悟れます。
 
キリスト教のパウロは自責の念にかられ、次のように述べています。
「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」                                           (ローマ人への手紙、第七章)

  一見誠実な反省に思えますが、欲望のとりこになっている恥ずべき情けない自分を感じていながら、同時にもう一方の「内なる人」が神の律法に仕えていることを喜んでいるところに、不謹慎と思われるかもしれませんが、人格が分裂している不誠実さが感じられるのではないでしょうか。

  「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女〔『姦淫』(不倫)をした女〕に石を投げつけるがよい」(ヨハネ第八章7)(モーゼの律法では姦淫の罪には石打の刑罰が与えられる)とイエスに言われ、石打をやめて、その場を静かに立ち去っていく人々に誠実さが素直に感じられます。
 
作家の遠藤周作氏は次のように述べてキリスト教の精神を説明しています。

 『キリストの教えた本当の精神の一つは、いかなる人間も高見から他人を裁く資格はないということです。信仰者の陥りやすい過ちの一つは自分は神から選ばれた人間である故に、神を知らぬ人々をひそかに裁き、軽蔑するという気持だ。自分を正しい心の立派な人間と思い、他人の過ちや罪を蔑むこと、キリストはこれを最も嫌ったのでした。大事なことは自分も他人も同じように弱い人間であることを知り、そして他人の苦悩や哀しみにいつも共感すること、これをキリストは聖書の中で「女性を通して」教えているのです。』(『聖書のなかの女性たち』講談社 141~142ページ))
 
キリスト教には前生の教えはありませんが、前生を教える仏教では、さらに深い自省、自己凝視がなされます。

『歎異抄』十三条で親鸞は弟子唯円に次のように諭しています。

「卯毛、羊毛のさきにいるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなし」(ウサギの毛や羊の毛の先についている塵のような目にみえるか見えないような小さな罪でも、前世からの因縁によらないものはない)
 
「わがこころのよくてころさずにはあらず、また害せじとおもふとも百人、千人をころすこともあるべし」(自分の心が良くて人を殺さないのではない。また殺すまいと思っても、百人、千人も殺すことさえあるであろう)

 前生いんねんの自覚は極めて難しいものですが、これによって真の自分に目覚めることができ、最近特に求められています弱者、敗者、劣者への思いやり、いたわりの心、たすけの心が生まれ、また他人を許せる心になれるのではないでしょうか。

 第二のポイントは、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と教示されますように、「さんげ」は、「たんのう」を伴っている点であります。
 「たんのう」とは「日々、いかなる事が起ころうとも、その中に親心を悟って、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。」(『教典』七六頁)と明示されていますが、この「親心」とは具体的には親神が節によって心遣いの反省を求めるとともに、節によって埃を強制的にではありますが、そうじして下さり、陽気ぐらしに一歩近づけるようにして下さっていることと、いんねんの割には大難を小難にして見せて下さっていることとして考えられます。

 第三のポイントは「さんげ」は将来に向かっての心定めによってはじめて受け取って頂けるという点であります。
         「これから生涯先の事情定めるのがさんげ」(M25,2,8

        「さんげだけでは受け取れん。それを運んでこそさんげという」                                (M29,4,4

 この「心定め」はこれから単に間違った心遣いをしませんというような消極的なものではなく、これから親神によって生かされている大恩と教祖によってお助けいただき、お導き頂いている御恩への御恩報じを生涯末代たすけ一条を通してさせていただくという「心定め」であり、この心定めの実行によって、前生いんねんの納消という御守護をみせて頂けるのであります。

        「身のさんげ心のさんげ理のさんげ、どうでもせにゃならん」                                 (M32,10,2
ともご教示頂いています。
 
  前生のさんげ、前生いんねんの自覚は、原罪や宿業の自覚のように、私たちを虚無的にさせ、あの世、彼岸での救済を空しく志向させるものではなく、逆にこの世でのたすけ一条による真の救済の成就を可能にするものであります。またたすけ一条のエネルギーは生かされている大恩への報恩の念とより徹底した前生のいんねんの自覚によってもたらされ、その両者が今希求されているのではないでしょうか。

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