教祖を身近に 連載 No.47 教祖のお出張り
「針ヶ別所、平等寺、三昧田へのお出かけは、元のぢばを正し、かぐらづとめをお教え下さるためと拝すれば、安堵村、大豆越村、若井村、教興寺へのお出かけは、親神様の思召をお広め下されるためのにをいがけ、おたすけと思案させてもらうことができると思うのと、円照寺、県庁、警察監獄へのお出かけは、言うまでもなく往還道をおつけ下されるためなのであります。いわばこの三つはいつでも合図立て合うて、密接なつながりをもちながら、道すがらに現れているのであります」(『みちのとも』昭和五十七年十二月号十五~十六頁)
真柱様は教祖の五十年のひながたにおけるお出張り(お出かけ)を一、元のぢばを正し、かぐらづとめを整える、二、にをいがけ、おたすけ、三、往還道をつける、という三つの目的に分けられ、いずれもたすけ一条という観点から密接なつながりをもつことを指摘されています。
教祖が月日のやしろとなられた天保九年から文久年間までは確かなお出張りの史実は明らかではありませんが、嘉永七年にをびや許しを出されてから、「重病人があって頼みに来ると、教祖は、いつもいと快くいそ/\とお出掛けになった」(『教祖伝』四二頁~四三頁)と記されていますので、お出張りが始められます。
『教祖伝』には教祖自らの具体的なお出張りが文久二年安堵村の産後の煩いのおたすけに始まり、明治十五年六月十八日~二十日教興寺村松村栄治郎宅へ、まつえの姉さく身上のおたすけまで十一回記されています。
『教祖伝』には教祖自らの具体的なお出張りが文久二年安堵村の産後の煩いのおたすけに始まり、明治十五年六月十八日~二十日教興寺村松村栄治郎宅へ、まつえの姉さく身上のおたすけまで十一回記されています。
そして教祖の召喚、拘留については十三回あります。自らのお出張りと官憲による召喚、拘留とは意味は異なりますが、教祖が拘留されることも「神のをもハくあるからの事」(五号 59)で、強制されたものではなく、自発的、自主的なものと考えますと、お出張りの一種と考えることができます。
教祖は一体なぜ警察、監獄署にお出張りになられ、御苦労下されたのでしょうか。
十三回の召喚、拘留、留置を列挙してみましょう。
明治七年十二月二十三日奈良県庁の呼出しで山村御殿へ。
教祖は一体なぜ警察、監獄署にお出張りになられ、御苦労下されたのでしょうか。
十三回の召喚、拘留、留置を列挙してみましょう。
明治七年十二月二十三日奈良県庁の呼出しで山村御殿へ。
明治八年九月二十五日~二十七日奈良県庁の呼出し、取調べ、三日間留置。二十五銭の科料。
明治十四年十月七日丹波市分署へ拘引。五十銭の科料。
明治十五年二月奈良警察署から呼出し。二円五十銭の科料。
明治十五年十月二十九日~十一月九日奈良警察署へ呼出し、奈良監獄署へ十二日間拘留。
明治十六年八月十五日~十六日雨乞づとめの後、丹波市分署へ連行、徹夜留置。
明治十六年十月十六日尋問の筋ありと引致。
明治十七年三月二十四日~四月五日丹波市分署へ拘引し、奈良監獄署に十二日間拘留。
明治十七年陰暦四月二十五日~二十七日警察署へ連行し、三日間留置。
明治十七年陰暦五月二十五日~二十七日 陰暦六月二十五日~二十七日いずれも警察署へ連行し、三日間留置。
明治十七年八月十八日~三十日丹波市分署に拘引し、奈良監獄署に十二日間拘留。
明治十九年二月十八日~三月一日櫟本分署に拘引し、十二日間拘留。
以上が『教祖伝』に記されている官憲による教祖の召喚、拘留、留置で、計十三回ですが、これが十七、八回といわれたりするのは、分署から監獄署へ移られるときに、二回として数えられるためかもしれません。
以上が『教祖伝』に記されている官憲による教祖の召喚、拘留、留置で、計十三回ですが、これが十七、八回といわれたりするのは、分署から監獄署へ移られるときに、二回として数えられるためかもしれません。
明治十九年の拘留はいわゆる「最後の御苦労」で、このシリーズのNo.22に私見を述べましたので、ここでは明治十五年十月の御苦労について考えてみたいと思います。『正文遺韻抄』に「九月十八日事件」(二〇四頁)と題された一節があります。
十月二十九日は陰暦の九月十八日で、九月九日夜に次のような神様のお話があります。「さあ/\、屋敷の中/\、むさくるしいてならん/\。すっきり神がとり払うで/\。さあ十分、六だい、何にも云う事ない、十分八方ひろがるほどに、さあ、このところ下へもおりぬもの、なんどき何処へ神がつれてでるやしれんで」
十月二十九日は陰暦の九月十八日で、九月九日夜に次のような神様のお話があります。「さあ/\、屋敷の中/\、むさくるしいてならん/\。すっきり神がとり払うで/\。さあ十分、六だい、何にも云う事ない、十分八方ひろがるほどに、さあ、このところ下へもおりぬもの、なんどき何処へ神がつれてでるやしれんで」
九月十七日夜「明日出頭せよ」、との召喚状が留きます。本席様に御伺いしますと神様からの次のようなお話が下ります。「さあ/\、何にもあんじる道やない。さあこれで、すっきりねをからしてしまふた。これでこそ、もう、ねが絶えたかと、かみにも思ふてゐる。思ふ心が違ふから、さあ根さきから芽がふく/\、西も東も北も南も、さあ、一枚板になってきたとの事や、さあ、しっかりきいておくがよい」
屋敷の中のむさくるしいものを神が取り払うとは、具体的には明治十五年十一月八日に蒸し風呂の廃止、十二月十四日地福寺引払いのことと思われます。この地福寺引払いとは、明治十三年九月二十二日に開筵式をした地福寺(真言宗)の配下にある天輪王講社を廃止することで、これは教祖が最初から「そんな事すれば、親神は退く」と言われ強く反対されていたものですから、当然のことといえるでしょう。
屋敷の中のむさくるしいものを神が取り払うとは、具体的には明治十五年十一月八日に蒸し風呂の廃止、十二月十四日地福寺引払いのことと思われます。この地福寺引払いとは、明治十三年九月二十二日に開筵式をした地福寺(真言宗)の配下にある天輪王講社を廃止することで、これは教祖が最初から「そんな事すれば、親神は退く」と言われ強く反対されていたものですから、当然のことといえるでしょう。
では「十分八方ひろがる」、「なんどき何処へ神がつれてでるやしれんで」とは何を意味するのでしょうか。「すっきりねをからしてしまふた」、「もう、ねが絶えた」とは官憲が八十五才の教祖を拘留することによって、本教の勢いが止まってしまう、と考えますと、そのようになっていくどころか反対に、「根さきから芽がふく」、「一枚板になってきた」、つまりたすけ一条の上に親神、教祖がより働かれ、教勢がのびていくことを意味しているように思われます。官憲は教祖をいくら拘束して、身動きできないようにしても、教祖は現身をもたれたままで、「存命の理」としてのお働きをされる、つまり教祖が留置されていても、御魂はたすけ一条の上に働かれ、さづけを通しての不思議だすけをみせて頂くことができる、ということを明治十五年十月の御苦労を通して私たちに仕込まれたのではないでしょうか。
明治七年十二月二十三日山村御殿への召喚に始まる教祖の御苦労は「高山から世界に往還の道をつけるにをいがけ」(『教祖伝』四二頁)、高山布教で、「此処、とめに来るのも出て来るも、皆、親神のする事や。」、「親神が連れて行くのや。」(同二九〇頁、『逸話篇』一五四)と教示されますように、官憲による受動的なものではなく、逆にたすけ一条の主体的な働きかけと教えられますが、これとともに「存命の理」を教えるためとも悟ることができます。「とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや。」(同二九〇頁)の「埋りた宝」を「存命の理」と考えますと、教祖を拘束することによって、たすけ一条の道が妨げられるどころか、逆に教祖は「存命の理」として御魂は身体的制約をはなれて、自由自在に世界だすけに飛翔されるということを「埋りた宝を掘りに来る」という言葉で私たちに教えられているのではないでしょうか。
教祖は御苦労が始まってから、より強くつとめを急き込まれるようになります。つとめとは「人間創造の真実の親たる親神・天理王命の理がこもる」(『教祖伝』二〇八頁)もので、つとめの勤修によって、親神が勇まれ不思議だすけを見せて頂くことができます。
教祖の御苦労は一見しますと、親神の教え、思召のわからない官憲によってもたらされた、たすけ一条を妨害するものと思えますが、「西も東も北も南も、さあ一枚板(岩?)になってきた」の「一枚板」を親神、教祖のつとめと「存命の理」を通しておお働きが一体となることで、それによって世界だすけが加速されると解しますと、私たちに改めて「存命の理」の意味や、つとめの大切さを教えるための御苦労でもあると悟らせていただけるのではないでしょうか。
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