教祖を身近に No.21
倍の力
「子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。」(『逸話篇』七五)
「神の方には倍の力や。」(『逸話篇』一一八、三一)
「そっちで力をゆるめたら、神も力をゆるめる。そっちで力を入れたら、神も力を入れるのやで。この事は今だけの事やない程に。」(『逸話篇』一七四)
教祖は『逸話篇』で、このほかにも、六八、八〇、一五二において、お屋敷に帰ってきた人々と力だめし、力比べをされていますが、これは教祖は月日のやしろで、親神の心を御心とされているだけではなく、御身体にも親神が入り込まれていることを示されていると思われます。又親神はこの世を身体として、その隅々にまで守護を及ぼされていますので、人間は親神の前には針の先にも満たない存在にすぎませんが、神の力を人間の倍と控えめに示されているところに、人間の存在を大きく受け止められている親心を感じさせて頂きます。「にんげんはちよほ(重宝)なるもので、よふきゆうさんを見て、そのたなにごともみられる」(十六年桝井本)「神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし。」(『逸話篇』一六四)ここに示されます本教の人間観は他宗ではみられない独自のもので、陽気ぐらしを目的にして親神の懐住居をしていることを教えられますが、この力は単に物理的な力だけではなく、「今だけの事やない」といわれますように、心の真実という意味もあり、「さあ~~実を買うのやで、値を以って実を買うのやで。」(M20,1,13)、人に真実の心があれば、親神の倍の真実の守護があるということを教えられていると思います。
また「倍の力」によって「いかほどのごふてきあらばだしてみよ 神のほふにもばいのちからを」(三,84)に明示されますように、親神の絶大なる威厳、人間の知恵、力、学問、科学の全く及ばない力も教えられています。
ところで教祖は力だめしをされた多くの人々の中で、梅谷四郎兵衛さんに次のような詳しい御話をされています。
〔この道の最初、かかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通りにしようと思へば、夫をはじめ、人々にせめられて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死ぬ方がましやと思ふた日も有ったで。よる、夜中にそっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとした事は、三度まで有ったがな、井戸側へすくっと立ちて、今や飛び込もうとすれば、足もきかず、手もきかず、身体はしゃくばった様になって、一寸も動く事が出来ぬ。すると、何処からとも知れず、声がきこえる。何といふかと思へばな、「たんきをだすやないほどに~~、年のよるのを、まちかねる~~、かへれ~~」と仰有る。〕(『正文遺韻抄』百三十九頁)
このお言葉を前回述べましたように、教祖に人間心を認める教祖成人論ではなく、身投げによって、身体的制約を脱して「存命の理」としてのお働きを表されようとして、親神に引き止められたと解釈しますと、「年のよるのを、まちかねる」の別の見方も考えることができます。『正文遺韻抄』では「年のよるのを、まちかねる」を「一つには、四十台や、五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて、話をきかすことは出来んが、もう八十すぎた年よりなら、誰も疑う者もあるまい。また、どういう話もきかせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年のよるのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで」、「八十すぎた年よりで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よって、力だめしをして見せよと仰有る」(百四十、百四十一頁)と説明していますが、しかしながら、
このように考えますと、教祖が月日のやしろとなられ、宮池の問題があってから、八十才までの約四十年間が空白になってしまうのではないでしょうか。
親神は教祖に「年をよるのを、まちかねる」といわれることによって、月日のやしろと「存命の理」の間に、ひながたの親としての御道中を間接的に指示されたのではないでしょうか。教祖は月日のやしろとして、世界の人々をたすけるために、口で説き、筆に記して教え導かれられただけではなく、私たちが実行しやすいようにとの親心から、教祖ご自身が身を持って実行され、私たちの先頭に立たれ、日々に実践すべき手本ひながたをお残しくださいました。教祖のひながたは時代、民族の違いをこえたもので、この実践こそが私たちがたすけて頂ける一番確実な道であります。
明治二十二年十一月七日のおさしづを断片的に引用させて頂きます。
明治二十二年十一月七日のおさしづを断片的に引用させて頂きます。
「難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ~~のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。あちらへ廻り、日々の処、三十日と言えば、五十日向うの守護をして居る事を知らん。これ分からんような事ではどうもならん。ひながたの道通れんような事ではどうもならん(中略)ひながたなおせばどうもなろうまい(中略)ひながたそばにある(中略)」
「ひながたなおせば」とはひながたを実践せずしまいこんでしまうことと、自分勝手にかえてしまうことの二つの意味が考えられます。
「ひながたそばにある」とは本席さんのひながたで「十二下りの止めは大工、これさえ聞き分けたら、苦労したいと言うても出けんが神の守護」(M31,7,14)は本席さんのひながたを実行すれば、難儀不自由はしないと理解することができます。
「細道は通りよい、往還通り難くい」、「世界の道は千筋、神の道は一条」等心すべきお言葉があります。
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