2011年10月8日土曜日

No.2  教祖を身近に 連載 第二回 「存命の理(後編)」

 次に「さづけ」による不思議だすけの根拠について考えてみよう。
 山本利雄氏は「存命の理」について次のように述べている。「教祖存命という信仰は、死んでも来世があるなどという幻想的な慰めごとを言っているのでは談じてない。?いのちの舞台?の永遠性、絶対性を言っているのである」(『いのち』)
 この存命論では親神の働きと教祖存命のお働きとの区別があいまいになってしまうであろう。ではどのように区別されるのか。

  ぢきもつをたれにあたへる事ならば
  このよはじめたをやにわたする(九・61
  月日にハこれをハだしてをいたなら
  あとハをやより心したいに(九・64

 このお歌のをやは親神ではなく、教祖のことであり、『親神は教祖の心に、「天の与え」を分配することに関しては自由に裁量することをお許しになっている」(芹澤茂著
『おふでさき通訳』)と解釈するとき、両者ははっきり区別することができる。つまり我々は親神によって救けられることは言うまでもないが教祖の御手引きにより、教祖を通して救けて頂けるということである。
 又教祖を通してということは、教祖五十年のひながたにおいて、立教以来道のために御苦労下された伏せこみを台として、我々子供の捧げるささやかな誠真実が親神に届けられ不思議だすけをみせて頂けるということである。
 教祖五十年のひながたとは、その道中の生き方、通り方、考え方をただ単にまねるサンプルであるだけではなく、「口に言われん、筆に書き尽せん道を通りて来た」(M22117)道中それ自体が、我々の救済の根拠であり、それに我々のささやかな日々尽し運んだ理が加えられて、教祖の存命のお働き、先回りの守護、さづけによる救済にあずかることができるのである。

「おさづけの理には、だれの頂いたおさづけの理が重いとか軽いとかというような区別はなく、老若男女、みんな頂いた理は同じ一つの理で……日々尽くした理、日々に運んだ理が鍵であって、真実変わらぬ誠を尽くし、生涯変わらぬ心で教祖の道を通ることが肝心なのであります」(全真柱、前掲書)
「さづけ」には理の軽重はなく、親神、「存命の理」のお働きは昔も今も変わらない。「存命の理」のお働きを頂くのに必要なことはどうでもたすかってもらいたいという「真実変わらぬ誠」の心と「日々尽くした理、日々運んだ理」だけである。「さづけ」はつとめと同じく教祖二十五年の定命のこめられたものであることを肝に銘じ、「たすける理がたすかる」という年祭のこの旬に、「さづけ」の取次ぎを課題として通らせて頂きたいものである。
 最後に次のおさしづを紹介させて頂く。
「このくらい運び、これくらい尽して居るのに掃除々々何でやろうと思う。よそのほこりは見えて、内々のほこりが見えん。遠くは明らか。近くはうっとしい。これ元が濁る。身の内かりものくと聞いた時だけ。一日経ち十日経ち言うて居る間に、二十日経ち遂には忘れる。一寸箒を持って掃除するようなもの。初めは少しの埃でも掃除する。なれども、もう箒は要らんと言う。さあ積もる~~。」(M241115)いやはや親神は我々の心を見ぬき見通しておられる。「さづけ」の取次ぎによる掃除が親神・存命の教祖によって求められる所以である。

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