2011年10月10日月曜日

No.18 教祖を身近に 連載 第18回 九つの鳴物 

教祖を身近に 連載 第十八回 「九つの鳴物」

『男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄かのことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手には出来ないという上から、教祖に、この旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、「さあく鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神がゆるす。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け。」という意味のお言葉を下されたので、皆、安心して、勇んで勤めた。』(『逸話篇』七四)
  これは明治十三年九月二十二日の転輪王講社の開筵式(『逸話篇』七三)の八日後の九月三十日につとめ場所で初めて鳴物を入れてのおつとめが勤められた時の様子を記したものですが、男鳴物については稽古もできておらず、何が使われたのか明確ではありません。
  女鳴物については、『逸話篇』五二、五三、五四、五五に記されているように、明治十年に琴、三味線、胡弓がそれぞれ辻とめぎく、飯降よしゑ、上田ナライトの三名に教祖から直接教えられますが、男鳴物については原典では「そのうちになりものいれて十九人 かぐらづとめの人ぢうほしいで」(十、27)から鳴物は九つで、男鳴物は六つということがわかるだけです。「そのところなにもしらざる子共にな たいことめられこのさねんみよ」(十六、 54)から太鼓が含まれることが分かりますが、おさしづでは「さあく、琴、三味、出けんく」(M.21.11.11)と示されるだけです。
 
では男鳴物の六つについては、何によって決定されているのか考えますと、これは教祖のお口を通して話されたものの伝承によるしかありません。
 男鳴物について、はっきりとした記述が見えるのは、二代真柱様の『ひとことはなし、その三』によりますと、明治二十一年十一月二十九日の教会本部開筵式のときで、それまでは個人が手近にもっているもので間に合わされていたようです。
   
  慶応元年十一月十一日付の大和神社事件の「御請書」には、前年十月二十七日に没収された鳴物として、拍子木、太鼓、鈴、手拍子(ちゃんぽんの小さいようなもの)が記されていますので、鈴以外のものは鳴物として使われていたのでしょう。又幕末期の絵馬や文献に描かれている、おかげ踊り、豊年踊り、大神楽などには、鉦、鼓、笛、数種の太鼓が見られますので、それらが取り入れられたのではないでしょうか。
 
 『ひとことはなし、その三』では鳴物の変遷を四期に分けられています。現行のものと異なるものだけ列挙しておきます。
  第一期、創始時代(明治二十一年十一月まで)太鼓は、しめ太鼓、笛はしの笛、すり鉦は手にもって木で打つ。
  第二期、制定時代(明治三十年頃まで)明治二十一年四月教会設置されてから、従来の鳴物では貧弱にみえるので、初代真柱様が日光東照宮での雅楽の鳴物を参考にして、鳴物の形を改められたようです。
  太鼓は台のついたほぼ現行のもの、鼓は雅楽のカッ鼓に改められます。すり鉦は手持ち。
  第三期、換器時代(昭和十一年まで)鼓はカッ鼓のまま使われます。三味線が琵琶に、胡弓は弦三本の八雲琴に変更されます。
 
昭和十一年の教祖五十年祭になって、カッ鼓が小鼓にもどされ、現行のものがはじめてそろうことになります。
  ところで明治二十年教祖が現身をかくされるときのおつとめでは、鳴物は琴、三味線、鼓しかありませんが、これはなぜでしょうか。この時のおつとめは初代真柱様の「命捨ててもという心の者のみ、おつとめせよ」との厳命に応えられる人が足りなかった、というような理由ではなく、「だんくと人ぢうそろふたそのゆへで しんぢつをみてやくわりをする」(十、38)と示されますように、つとめ人衆だけではなく、鳴物も勝手にできるものではなく、教祖によって御命を頂いた、許された人しか勤められなかったからではないでしょうか。かぐら、鳴物の人衆の中には、その頃まだ生まれていない方の指名もあったようですが、そのときは代理の方がいないと、おつとめはできませんので、教祖から許された方、この方には徽章(「お召下ろしの赤衣で作った紋」『教祖伝』一五七頁、「十二の菊の紋」『正文遺韻抄』一四九頁)が渡され、おつとめへの参加が認められた、といわれています。二代真柱様は、そのような方々は七十五名であったと推定されていますので、鳴物の手が足りないので勝手に出させて頂くということができなかったことが鳴物が三つしかなかった理由と思われます。

次に明治二十九年四月六日内務省秘密訓令発布後の鳴物に関する変更についてみますと、本部では連日役員会議が開かれ、五月十八日の会議案について二十日おさしづを仰ぎます。おつとめに関しては、第一朝夕のおつとめ今日より第一節は止め、第二、三節のみつとめること、第二、月次祭には御面を据えて、男ばかりで第二節と第三節二十一遍つとめ、次に十二下りをつとめ、鳴物は男ばかりにて、女の分は改器なるまで当分見合わせる、との願いに対して、それぞれ「子供可愛からどのような事情も受け取ってやろう」、「理は一つの許ししよう」とのお許しを頂きます。
  
  このようにおつとめの鳴物もいくつかの変遷を経ることになりますが、おつとめとは「よふきゆさんおとり(踊り)をする事なり。この人じゆう十人、なりものかず九ツもって神をいさめることなり」(十六年桝井本)と教えられますように、神を勇めさせて頂くことが目的と考えますと、鳴物はメロディ、テンポ、リズムが陽気ぐらしの調べになるように、一手一つにつとめさせて頂くことが何より大切であると思わして頂きます。
  身の内の九つの道具を、陽気ぐらしのため、人だすけのために使うことを九つの鳴物を通して教えられているのではないでしょうか。九つの鳴物と九つの身の内の道具の対応については『おつとめの心』(松本滋著善本社)を参照して下さい。また『天理教教理大要』(諸井慶一郎編著)にも松本氏とは異なった悟りが紹介されています。

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