2011年10月11日火曜日

No.28 教祖を身近に 連載 第28回 親が代わりに(1) 

         教祖を身近に No.28
                      親が代わりに(1)
『教祖は、平素あまり外へは、お出ましにならなかったから、足がお疲れになるような事はないはずであるのに、時々、「足がねまる」とか、「しんどい」とか、仰せになる事があった。ところが、かよう仰せられた日は必ず、道の子供の誰彼が、意気揚々として帰って来るのが、常であった』(『逸話篇』一六二) この逸話については、「教祖が、お屋敷で、子供に代わって」、「親として、その身代わりをして」、「お疲れ下された賜物だった」と説明されています。
 
この「身代わり」は救済の観点から考えますと、どのような意味をもつのでしょうか。
 イエスの十字架による磔刑についてみてみましょう。一般にイエスの死は贖罪死といわれています。罪なきイエスが十字架にかけられ死ぬことによって、「創世記」にでてきますアダムとイブが犯した原罪と人々の罪があがなわれると考えられていますが、贖罪とは一体何を意味するのでしょうか。
 
「あがなう」とは『広辞苑』では、購うとも書き、これは買い求める、という意味ですが、贖うは「金品を代償として出して罪をまぬかれる。転じてつぐないをする。罪ほろぼしをする」と説明されています。また「罪ほろぼし」(罪滅)は「善事を行って過去の罪をつぐない、滅ぼすこと。罪の消えるような功徳を行うこと。贖罪」となっています。本来善事を行ない、功徳をつむことによってしか消えないはずの罪が、イエスの十字架を信じることによってゆるされる、なくなるということはどういうことなのでしょう。
 
この世での救済を考えますと、極めて抽象的なものであるように思われます。
 キリスト教では、神は人の罪を赦す方法として、罪なきイエスにすべての人の罪を負わせ、人に代わって彼を十字架の上に死なせることによって、人の支払うべき罪の価を、人に代わって負担したのであると考えられています。人がイエスの十字架の死の中に自分の罪を認め、イエスが死んだのは、自分の罪のために、自分に代わって死んだと信じるならば、神はイエスの神への従順のゆえに、かく信じる人の罪を赦す(具体的には洗礼をうけ、司祭への罪の告白や悔い改めによって)と説かれますが、罪のゆるしとは具体的に何を意味するのかはっきりしません。
 
矢内原忠雄氏は『キリスト教入門』(角川選書)の中で、次のように説明しています。私たちは自由によいことをすることを妨害し、よい人間になろうとする自分の心を弱め、努力をむだにするような罪の奴隷になっていて、奴隷の身代金を払って奴隷を買い戻すことが罪のあがないである、又私たちが払うべき身代金とは死で、罪に対して身代金を払うことは、罪の奴隷として死んでしまうこと、つまり魂が自由になることで、その身代金をイエスが死ぬことによって、身代わりとして払ってくださる、これが十字架の福音である。

しかし問題はここからで、魂は罪のあがないによって自由になっても、この世の身体、心の働きはもとのままという二重生活にあることです。つまり魂は救われても、身体、心は救われていないということです。
 救済は従いましてこの世においてではなく、あの世に繰り延べされます。病気もせず、死にもしない、心の働きが健全になるのは、イエスが死後三日目に復活したように、私たちも死後復活することによってですが、この復活も、この世への生まれかわりではなく、霊魂の宿る新たな体が与えられ、これによって救われた魂は救われた体を器として、新たな生命と平安をえて、永遠に生きるようになる、つまり救済が成就されると説明されています。(キリスト教の救済観にはもう一つキリスト再臨がありますが、ここでは割愛します)
 
つまり魂の自由、救いがあるだけで、この世での身体、心の働きの具体的な救いはないということになります。このような「身代わり」の救済観は、私たちの心を真に満たすものでしょうか。
 十六世紀初頭にルターの宗教改革があります。教皇庁、ローマ教会の免罪符販売に反対して起こされたものですが、この免罪符もこの世における救いが抽象的であるために、人々が安直に救いを手に入れたいという心理を悪利用したものではないでしょうか。
 本論から少しはずれますが、ルターの宗教改革の骨子(現代の私たちの信仰に対する問題提起になっているように思われます)を紹介しておきます。
一、救済は律法を基準としないで、ただ信仰
によって認められる、信仰の義認 二、信仰の根拠は神の言葉である聖書に基づくもので、教会や教皇により制約されるものではない、聖書中心主義 三、そのため聖俗の区別は意義を失い、世俗的職業を肯定する信徒皆司祭主義の三点であります。ルターは改革を精神上の問題にとどめて、現実世界の改革は要求しなかったといわれています。

 では本教の「身代わり」はキリスト教のそれと同じでしょうか。
 松本滋氏は『人間の元なるもの』の中で次のように述べています。少し長くなりますが引用します。『われわれ人間が誠心でつとめた徳と、知らず知らずに積んでいるほこり、いんねんとを、プラス、マイナス差引勘定したならば、大抵の人はマイナスの方が遥かに多いのではないでしょうか。今生だけでもそうですから、まして前生、前々生のことまで考えるとしたら、どれだけマイナス、天借を背負っているかわからないでありましょう。もし天の親神が、「天の定規」にあてて、一尾一厘の狂いもなく、人間一人一人を裁くとしたら、とてもわれわれはこの世に満足な姿で生きておられぬと言ってよいでありましょう。それを結構にたすけられて、しかもめいめいの、いんねんの割には、本当に恵まれた生き方を日々営みえているのは、とりも直さず、みな教祖のお陰なのであります。教祖が、天の理の分らぬ、ほこりだらけの人間子供のために、いわば「身代わり」になって苦難の道を五十年も歩まれた、その賜物だ、と私は申したいのであります。』(一四〇、一四一頁)
 ということは教祖の五十年のひながたの道中は、私たち人間が何代にもわたって負ってきた天借を、永久に返す事の出来ない私たちに代わって、私たちの「身代わり」となって返済して下さった道中であるということになります。

氏は次のようにも述べています。
『この「たすけたいとの一条ばかり」という親心は教祖ひながたの道のいたるところに満ちあふれているのですが、中でも最も深く、最高の形で表されているのは、人間子供の苦しみ、痛み、悩みを、みな親が代わりに引き受けてやろうという、そういう教祖の姿であります。』(一三七、一三八頁)

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