2011年10月12日水曜日

No.37 教祖を身近に 連載 第37回  赤衣 

赤 衣

「さあ~~ちゃんと仕立てお召し更え出来ましたと言うて、夏になれば単衣、寒くなれば袷、それ~~旬々の物を拵え、それを着て働くのやで。姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。」(M23,
3,17)
教祖は明治二十年陰暦一月二十六日に現身を隠されますが、今も元のやしきに留まられ、世界たすけに存命でお働き下されています。お姿は見えませんが、「存命でありゃこそ日々働きという。働き一つありゃこそ又一つ道という。」(M29,2,4)、「子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。」(M20,2,18)と仰せられるように、目に見える具体的なお働きを、赤衣を着られ、されていると、とはっきり言われています。

 教祖はおふでさき第六号を明治七年十二月から書き始められ、この中で、これまで使ってこられた神という文字を月日に換えられ、「このあかいきものをなんとをもている なかに月日がこもりいるぞや」(六、63)と教示されるとともに、十二月二十六日から着物も足袋も赤一色のお召し物を召され、自ら月日のやしろであることを、お姿にもお示し下さるようになります。
またこの日に身上だすけのためのさづけ(『教祖伝』百二十四頁)を四名の者に渡されますが、赤衣を召され、直後にさづけを渡されたのは、さづけは単なる祈祷やまじないのようなものでは決してないことや、さづけによるたすけの主体はあくまで教祖、月日であることを示されるためと思われます。
 
また「たん~~と六月になる事ならば しよこまむりをするとをもへよ」(四、5)と示されますように、明治七年六月より、お召しおろしの赤衣を「証拠まもり」、おまもりとして広く人々に渡されるようになります。「証拠まもり」は現在でも十五才以上であれば本人が、十五才未満の小人は親が代わって頂く事が出来ますが、渡されるものは同じものではありません。どちらもお召しおろしの赤衣ですが、十五才以上の方は赤衣を三寸四方に切り、これを三角に折って縫い、中に神という字の書かれた五分のきれが入っています。この意味については「此の三寸四方という理は、元ない世界、ない人間をお宿し込み下された元の地場、是が四方正面の屋敷である。それで三寸四方に切ってある。又、この三寸という理は世界中ない人間を元此の屋敷でいざなぎ、いざなみの命様を種苗代にして其の胎内月日の心入り込んで、三日三夜に宿し込み下された理を以て、三つ身につくと仰しゃる。又五分のきれに神という字を書いてあるは、人間は生まれる時には、五分五分と成人して、神様の御守護で五尺の人になったのである。」(『根のある花、山田伊八郎』百五十一頁)と説明されています。
 
小児のおまもりは二寸に一寸二分の赤衣を四角に縫い、中に「む」という字を書いた五分のきれが入っていますが、この「む」の意味については分りません。大人、小人の二種類のおまもりは、それぞれ「悪難除けの守り」、「ほうその守り」とも言われますが、どちらも存命の教祖のお働きを頂ける、最も身近で大切な二度と頂くことの出来ないもので、当人が出直しても、内々の宝として祀るように教えられています。
 
ところで『教祖伝』百五十七頁に「お召下ろしの赤衣で作った紋」という言葉があります。教祖は明治十四年当時五才のたまえ様に「子供は罪のない者や、お前これを頒けておやり」と仰せられ、居合わせた人々に頒けさせられますが、これは何のための紋でしょうか。
『正文遺韻抄』に次のような記述があります。「明治十四年、増井おりん様を、はりのしんとして、山沢おひさ様と両人に、十二の菊の紋を拵ふ事を御命じ被遊、七十五人の人衆の印として、御下げになりたる事あり」、「多くの人がおはりすれば、誰が人中ともわからぬ程に、明日は人中の印を渡す」(百四十九頁)この「人中」を人衆と解し、「七十五人の人衆」をつとめ人衆〔かぐら十人、鳴物九人、手おどり三十六人、がくにん二十人で合計七十五人となりますが、「がくにん」については「学人」「楽人」などの文字を当てて、雅楽人、事務をとる人或いは「代理をつとめる人」(二代真柱様「ひとことはなし その三」等の解釈があります)と受け取りますと、親神様、教祖のお目にかなった人をつとめ人衆に決められ、その目印として「十二の菊の紋」を渡されたのではないでしょうか。又たまえ様を通して渡されたことには、子供心は純粋で、ねたみやそねみの大人の心を引き起こしにくくするという教祖のお心配りが感じられます。

この「十二の菊の紋」はさしわたし三寸で、赤地(赤衣と思われます)に十二弁の菊の模様に白糸を縫い付けたもので、「はりのしん」(針の芯)の方だけが作ることを許され、数十名の人々に渡されたようですが、教祖が「持ちて居られる者と、持ちて居られぬ者とあるで」と仰せられたように、頂いても、身上をみせられ、すぐに返納した人や失った人も多くあったようです。

 また明治十六年の雨乞いづとめの時、この紋を背中に縫い付けたおつとめ着を着て、警察に没収された人もあり、その後も保存できた人はかなり少なくなったと言われています。つとめ人衆は、かぐら、鳴物、手おどりの順序で役割が決められますが、女鳴物の三名(胡弓上田ナライト、琴辻とめぎく、三味線飯降よしゑ)をのぞいて、かぐら十人、男鳴物、手おどり、がくにんの人衆については、氏名は定かではなく、決められてもその通り必ずしもつとめられたわけではなかったようです。つとめ人衆には、まだ出生していない人もいて、代理も教祖のお許しがないとできない以上、教祖御在世中は、つとめ人衆が完全にそろって、つとめられたことはないように思われます。
 
教祖が現身を隠された明治二十年陰暦一月二十六日のおつとめは、かぐらは九人が男性、手おどりは六人とも男性、鳴物は琴、三味線、鼓しかなく、琴はたまえ様がつとめられています。「十二の菊の紋」の有無や教祖が鳴物の人衆を決められないままで、つとめられたことが原因となっているのではないでしょうか。
 
私たちは現在お召し下ろしの赤衣をおまもりを通して頂いています。おまもりは身を安全に守っていただけることは言うまでもありませんが、存命の教祖のお働きをいただいてお守りいただけるわけですから、常に教祖が存命で肌身はなれず付き添って下さっている、教祖と日々共に歩ませて頂いている、教祖のお供をさせて頂いていることや、求められているたすけ一条の心を常に忘れることなく日々通らせていただくことが大切であると思わせていただきます。

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