一列兄弟
「世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に。」(『逸話篇』一三五)
「せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや(十三、43)「どんな者こんな者、区別は無い。並んで居る者皆兄弟、一家内なら親々兄弟とも言う。それ世界中は皆兄弟」(M32.8.6)
一列兄弟について考える前に、元初まりのお話の中の子数の産みおろしについてみてみましょう。
「十六年桝井本 神の古記」に次のように記されています。「人かす(数)九億九万九千九百九十九人のうち、やまと(大和)のくに(国)ゑう(産)み(下)しろしたる人げんわにんほん(日本)の地に上り、外ゆ(の)くにゑう(産)みおろしたる人間わじきもつ(食物)をく(食)いまわ(廻)り、から(唐)、てんじく(天竺)の地あか(上)りゆきたるものなり。」、「にんほんの地」での産みおろしについては、奈良、初瀬七日、大和国中四日、山城、伊賀、河内十九日、残るにほん中四十五日、合計七十五日かかったとは記されていますが、「外ゆくに」については何も示されていません。『教典』第三章「元の理」では、第二、第三の宿し込み、産みおろしがあり、この二つの産みおろしの場所については「しょしょゑうみおろしまわり」(十六年桝井本)という記述があります。また三度の産みおろし場所について「一宮、二墓、三原」(「十六年桝井本」)との説がありますが、意味はわかりません。「七十五日かかって、子数のすべてを産みおろされた。」という説明はあくまで、第一回目の産みおろしについてと思われますが、いずれにしましても、五分から産みおろされた子数が一尺八寸に成人して、海山、天地、日月も漸く区別できるようになった、との記述から考えますと、七十五日、地名等の具体的な数字、名前は深遠な内容を少しでもわかりやすくするためのイメージや方便であったのではないでしょうか。
また産みおろされたものは狭義の生命体と考えられやすいのですが、もしそうなら親神はそれまでに天地自然界を創造し、生命体を造り始めるための環境を整えなければなりません。しかし「元の理」では、人間の始まりは、この世、宇宙の始まりで、「五尺になった時、海山、天地、世界も皆出来」たと教えられますように、人間と世界、自然の成人、成長は同時ですので、狭義の生命体と考えることはできません。「どじよふ人間のたまひ(魂)」という言葉もありますので、霊的とも生物的ともいえるような存在のように思われます。
しかし産みおろしの順序の問題や「にんほん(日本)」、「から(唐)」の問題もありますが、これについては、稿を改めて考えてみたいと思います。
いずれにしましても、世界中の人間は、国籍、皮膚の色が違っても、陽気ぐらしをするために、親神によって創造された子供であり、互いに兄弟であることが一列兄弟の意味ですが、一列兄弟には他にも違った解釈が考えられます。
用木で科学者の村上和雄氏は次のように述べています。『私は、生き物すべてが親神様から見れば兄弟姉妹であるということだと思います。遺伝子暗号の基本的なものが全く同じである。遺伝子暗号の解読表が大腸菌から人間まで全部通用するということは、生き物には共通の法則が働いているということ。つまりそれは、共通の親を持っているということ。こういうふうに考えると、この「一れつちきょうだい」という教えは、人類みな兄弟姉妹やという教えをさらに超えるのではないかと思います。』(『科学者が実感した神様の働き』一二七頁)
このような解釈は、天台宗の本覚思想(「山川草木悉皆成仏」という言葉で表わされるもので、人間のみならず、全ての生きとし生けるもの、山や川のような無機物に至るまで成仏できるという思想)にも通じるもので、自然環境破壊が進み、生命が軽視され、心の荒廃が大問題となっている現代において正に必要とされる考え方ではないかと思われます。
ところでこのような一列兄弟は、余りにも高尚で遠大なものであるため、抽象的で現実離れしたものになりやすいかもしれません。これに対してもう少し具体的に思える一列兄弟の見方があります。
浄土真宗の開祖親鸞は『歎異抄』第五条において次のように述べています。
「父母の孝養のためとて、一辺にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」〔亡くなった父母の供養のために念仏をしたことは一度もありません。なぜならすべての生きものは因果の理によって、一度死んでも又生まれかわり、長い前世においては、すべての生きものは、いつかはわが父母であり、兄弟であったということは必ずあると思われるのです。(梅原猛氏の訳)〕
ここで人間から動物への生まれかわり、またその逆の生まれかわりがあるかという問題はありますが、ここでは触れないでおきましょう。今人間から人間への生まれかわりだけを考えますと、人間の誕生には両親が必要です。両親の二人にはそれぞれ二人づつの両親、というようにして、十代前までさかのぼりますと、一〇二四人の両親が、さらにさかのぼりますともっと多くの親が必要となります。そしてその親々その兄弟が生まれかわりしているわけですから、今この世に生きている人の中には、前世私の親や兄弟であった人が無数にいるということになります。
教祖は上田ナライトさんに「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで。」(『逸話篇』四八)と仰せられていますが、これは教祖がこの世に生まれかわりされているということを間接的に示すものでなく、私たちの身の回りの人間関係は生まれかわりという視点からみると、複雑に入り組んだものであり、今世では赤の他人と思われる人が、前世では身内であったりすることを教えられているのではないでしょうか。
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