2011年10月9日日曜日

No.5  教祖を身近に 連載 第五回 「つとめ2」


教祖を身近に 連載 第五回 「つとめ2」
村上道昭 むらかみ みちあき
 つとめは大別して、「いつもかぐらやてをどりや すゑではめづらしたすけるるぞや」(六下り目五ツ)のお歌からわかりますように、かぐらとてをどりの二つの部分から成立っています。
    この両者については、かぐらは理が非常に重く、てをどりは理が軽いといわれています。かぐらは、ぢばに据えられているかんろだいを囲んで、特定の十人のつとめ人衆によって、ぢばにおいてのみつとめられますので、理が重いと考えられていますが、このことはかぐらづとめだけ重視して、各教会でもつとめられるてをどりは軽く扱ってもよいということではありません。

    つとめのお歌の成立順序をふりかえりますと、かぐらの第一節、十二下り、かぐらの第二節、よろづよ八首、かぐらの第三節となっています。かぐらを教えてから、てをどりを教えられていません。ということはかぐらとてをどりは本来分けて考えるべきものではなく、一つのつとめの前半、後半として理の軽重を考えず、「一つの手の振り方間違ても、宜敷ない」といわれるようにともに理の重いものとして受けとるべきではないでしょうか。昔ある時期には、をびやづとめの際に、かぐらづとめが何回もくりかえしてつとめられたり、現在も春秋の霊祭には、かぐらづとめはなく、てをどりだけがつとめられますが、これは非本来的なもので、例外としてつとめられますので、両者の理の軽重とは関係がないと思われます。

    確かに私たちはかぐらづとめに参加できませんが、朝夕のおつとめ、月次祭における座りづとめ、てをどりは、かぐらづとめの理をいただいてつとめるのですから、今、ぢば、かんろだいの前でつとめているような気持ちをもち、真剣につとめることが大切と思います。

   濱田泰三氏は『ムック天理』第四号の中でかぐらとてをどりについて次のように説明しています。『ぢばから遠い各地で行なわれる「つとめ」において発揮される、全信者の熱い祈りのエネルギーの波動は、すべて「かんろだい」の一点に向けて集中し、その力が道具衆の「かぐらづとめ」を活性化し、そしてこれがそのまま親神の創造力、世界たてかえの力を「いさませる」ことへとつながる』(四九頁)
   私たちのつとめるてをどりが「かぐらづとめ」に結びついているならば、てをどりも決して軽く扱うことのできない理の重いものと考えることができるでしょう。
     
       にちくに神のむねにハたんくと
     
       ほこりいゝばいつもりあれども         (十三・21)

       このほこりそふぢするのハむつかしい

       つとめなりともかゝりたるなら          (十三・22)
 
    このお歌から、人間の心に埃がどれほどたまっていても、つとめによって払われることがわかります。つとめによって、人間の力では不可能な心魂の浄化、この世における陽気づくめの実現、運命の切りかえがもたらされるのです。「このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで。」と諭される所以です。
    次にかぐらの第一節、第三節のつとめられる回数の意味について考えてみよう。
第一節と第三節はかぐらづとめにおいてともに二十一遍つとめられますが、その意味を山本利雄氏は『続人間創造』の中で次のように説明しています。

    氏は『教祖伝逸話篇』一七三「皆、吉い日やで」を引用して、二十一は十ぶんたっぷり、なおかつ十ぶんたっぷりはじまる理で、それが第一節の二十一の意味で、第三節の方は、七遍づつ三回くりかえされますので、七(たいしよく天、切る理、非連続)×三(くにさづち、つなぐ理、連続)イコール二十一でここに「実在することの時間と空間の本真実が見事に表現されている」とのべています。
    又第一節の十八遍目の終わりに合図木が入り、それを合図にして、それまで普通の手であった、たいしよく天のつとめ人衆の手振りが、切る守護の表現にかわって三遍つとめられる意味について、いのちは十分に成長してはじめて分裂及び増殖の切る守護がはじまる、最初から切る守護が表現されるのは、むしろ不自然である、「進化の旬の到来とともに、切る守護が表に現れる」、と解しています。しかし進化(分裂及び増殖)には、細胞分裂を考えますと、はじめから切る働きがあるので、第一節の二十一は三×七、三(つなぐ理)が七回断続的に続いていく、七番目の三の前は十八遍目ですので、そこで合図木が入り、七番目の三からより大きな切る働き、例えば母胎との胎縁を切る働きが始まる、と考えられるのではないでしょうか。
 
    にわとりの卵は二十一日でふ化すると聞いたことがありますが、二十一は新しい生命の誕生、生まれかわりを意味し、第一節、第三節を二十一遍つとめることによって、心のあしきは払われ、心の生まれかわりによって、様々なたすけに浴することを教えられていると思われます。
  この二十一の第一節、第三節の微妙な違いはそれぞれの「たすけ」の言葉の意味の違いによるのかもしれません。
  
  第一節は人から神への祈り、神に切なる願いを求めるお歌で、それに対する神から人への語りかけ、お諭しが第二節で示されています。第二節では「ぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな これハこのよのはじめだし」からわかるように人間の創造と守護の原理という人間救済の根拠が簡潔に示されますので、第三節は神の人間救済の意志の表示というだけにとどまらず、第一節を二十一篇くりかえすことによって心がすみきり、神の思いをうけ入れ、人をたすける心になった人と神との「かんろだい」世界実現を目指すお歌と悟ることができます。

  従って第一節の「たすけ」は人が神に願う個人的なものであるのに対して第三節の「たすけ」は「人たすけたらわがみたすかる」(三・47)と教えられますように神が人に確約される一れつすます全体的な「たすけ」であるという違いがあるように思われます。

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