2011年10月12日水曜日

No.36 教祖を身近に 連載 第36回  ぢば定め 

ぢば定め

『明治八年六月、かんろだいのぢば定めが行われた。教祖は前日に、「明日は二十六日やから、屋敷の内を綺麗に掃除して置くように」と仰せられ、このお言葉を頂いた人々は、特に入念に掃除して置いた。教祖は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなく成った地点に標を付けられた。』(『教祖伝』一二八頁) 明治八年に初めて「かんろだい」(これについては稿を改めます)を据える場所が明示されることになりますが、教祖はそれ以前にも「ぢば」を暗示するお言葉を述べておられます。
 
嘉永六年母屋取りこぼちの時に、教祖は「これから世界のふしんに掛かる。祝うて下され」と言われますが、母屋の中の北西にある座敷の床下に「ぢば」があり、母屋の取りこぼちによって、「ぢば定め」ができ、世界のふしんをするための、つとめができるようになることが予見されていたと思われます。
 また元治元年のつとめ場所のふしんの時に、教祖はたすけられた御礼に御社の献納を申し出た本席さんに、「社はいらぬ」、「一坪四方のもの建てるのやで、一坪四方のもの建家ではない」と仰せられています。「建家」とは人間の住む家と考えますと、「一坪四方」とは神聖なもの、神の鎮まる場所で、「ぢば」のことと考えられないでしょうか。

 現在据えられている「かんろだい」の真上に一間四方の天窓があり、「かんろだい」は約一間四方を花崗岩の延石により四角に区切られ、その中には那智黒の黒石がしきつめられ、その外側は白い小石がしきつめられています。「一坪四方」によって「ぢば」、「かんろだい」、つとめが暗示されていると考えられます。

 明治六年、教祖は本席さんに、かんろだいのひな型の製作を命じられています。現在の十三段のかんろだいではなく、直径(さしわたし)約三寸、長さ六尺の六角の棒の上下に、直径約一尺二寸、厚さ三寸の六角の板のついたもので、しばらく倉に納められますが、ぢば定めの後、こかん様の身上お願いづとめに当たり、「ぢば」に据えられ、以後それまでの御幣にかわる礼拝の目標(めど)にはじめて定められます。しかし「ぢば」の意味については、「元初まりの話」等によって明治十四年以後詳細に教えられるようになります。
 
では「ぢば」とはどのような場所でしょうか。「元初まりの話」によりますと、「このよふのほん元」(六、56)「いさなきいゝといざなみのみのうちよりのほんまんなか」(十七、6)、「にほんのこきよ」(十七、8)つまり種(いざなぎ)、苗代(いざなみ)によって最初の宿し込みがなされた元の一点で、人間をはじめとする生命あるすべてのものの故郷であると教えられます。

「みのうちよりのほんまんなか」については「夫(それ)ヨリかんろふ台の処が、魚ト巳ト体のしん。つとめ場所の処が、かしらとなり。」(『根のある花、山田伊八郎』六三頁)という神様の仰せがあります。つとめ場所の南の少しはなれた所に「ぢば」があり、つとめ場所に頭をおき、北枕に西向きに寝て、「ぢば」を体の芯(「へそ」という説もあります)にして宿し込みをされた、魚は「くぢら」(鯨)(前掲書、同頁)と説明されていますが、これは親神の目に見えない広大無辺で複雑極まりない働きを、当時の人々に具体的なイメージでわかりやすく説明されたと思われます。
 
ここで注意しなければならないことは、夫婦のひな型、生命の生みの父親、母親はいざなぎ、いざなみのみことですが、厳密に言いますと「うを」(岐魚)に「しゃち」(つきよみのみこと)を仕込み、月様(くにとこたちのみこと)が入り込まれて男ひな型種、「み」(白ぐつな)に「かめ」(くにさづちのみこと)を仕込み、日様(をもたりのみこと)が入り込まれて女ひな型苗代としてのそれぞれのお働きをされる点で、このような夫婦によって、三日三夜に九億九万九千九百九十九人(この数字の意味については稿を改めます)の子数の人間の宿し込みがなされることになります。
 
また「ぢば」はあくまでも宿し込みの場所であり、三年三月留まってのちに、産みおろしは別の場所にて(この場所についても稿を改めます)七十五日かかってなされます。それから親神による気の遠くなる年数にわたる並大抵でない御苦労によって人間が誕生することになりますが、「ぢば」はこのような意味において聖地ということができます。


 ところで「ぢば」は、「天理王命の神名を授けられたところ」(『教典』四三頁)とも教えられますが、これは何を意味するのでしょうか。「ぢば」において天理王命が鎮まり給うということは親神天理王命の働きが「ぢば」に限定されるという意味ではなく、「たん~~となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ」(三、40,135)から分りますように、親神の働きは世界の隅々に及んでいますので、「ぢば」とは人間の単なる故郷であるだけではなく、現在の人間の生命の根源、その理をうけて、たすけの与えられる場所でもあり、この点において、他宗の聖地、霊地との根本的な相違があります。
 
「ぢば」が現在の人間の生命の根源であることを、さらに詳しく考えますと、人間の創造とは太古の昔の話ではなく、今現在においても行われているということです。諸井慶徳氏は次のように説明されています。
「この持続すなわち一見保存に外ならぬかのごとく思われるものも、実は神の不断の創造により、連続的生産によって行われるものでこそなければならない」(『著作集』第六巻九四頁)難解な表現になっていますが、一切のものが今存在している、存在を許されているのは、「神の不断の創造」によってであり、「元の理」で説かれている一見過去の物語のように思われる親神の働きが、今、ここにおいても連続して及んでいるということです。親神は時間を超えながらも、時間の中で、時間とともに働かれていますが、その働きの様式が、かぐらづとめによって示されているわけであります。
 
「ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる。ぢばがありて、世界治まる。」(M21.7.2)今世界において希求されている真の平和は、「ぢば」の理によってしか実現しないということを決して忘れてはいけません。

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