教祖を身近に No.二十二
最後の御苦労
「この冬は,三十年来の寒さであったというのに、八十九才の高齢の御身を以て、冷たい板の間で、明るく暖かい月日の心一条に、勇んで御苦労下された。思うも涙、語るも涙の種ながら、憂世と言うて居るこの世が、本来の陽気ぐらしの世界へ立ち直る道を教えようとて、親なればこそ通られた、勿体なくも又有難いひながたの足跡である。」(『教祖伝』二九一頁)
教祖は明治十九年二月十八日から三月一日までの十二日間、櫟本分署にて最後の御苦労を下されます。拘留の理由は心勇組(敷島の前身)の講中が門前の村田長平方の二階でてをどりをしたためと考えられていますが、それは契機でありまして直接的には『御守の中に入れたる文字記してある「キレ」出でしより、其品を証拠として教祖様及び真之亮を引致したり。桝井と仲田ハ屋敷に居りし故引致せらる。』(『ひとことはなし』二三三頁)からわかりますように、「御守り」の交付の責任の所在に関わるもので、明治十七年八月十八日から十二日間の御苦労の拘引理由と同じで、「違警罪第一条第九項」の違反であります。「神官、僧侶ニアラズシテ他人ノ為メニ加持祈祷ヲナシ、又ハ守礼ノ類ヲ配授シタル者」に当たるとみなされたわけです。
違警罪とは明治刑法(明治十五年施行)では重罪、軽罪の下の一番かるいもの、拘留、科料に処せられるもので、教祖の場合は政治犯では決してありません。従って「十九年頃は、日清戦争のために軍国主義が大いに宣伝されていました。その時代に世界一列兄弟、たすけ合いなどと説く人間は、国の方針に仇なす重罪人とみなされたのです」(八島英雄『中山みき研究ノート』二七一頁)との見方は全くの見当はずれということになります。
しかし問題は違警罪の教祖が官憲から拷問をうけたか否かで、肯定否定の見方があります。辻忠作さんは次のように記しています。
「其時さし入にゆき居るに巡査が教祖様を無暗に打ちょふちゃくすること甚だ敷く誠に見るも涙の種思ふもかしこきこと事にぞある後三月中ごろから中田儀三郎煩ひとなり五月末に死去なりました」(『復元』第三一号、四十頁)仲田儀三郎さん(当時五六歳)の死去が改宗をせまる折檻によるものかはわかりません。しかし教祖への打擲については事実かどうかは疑わしく、忠作さんが差し入れ(これも不確実)にいって、そのような現場を見ることなど考えられません。分署に入ることすら自由にできず、分署の中の様子は、教祖に昼夜の別なくお側に仕えられた、ひさ様に差し入れられた弁当箱のタブレットを通してしか知ることができなかったようです。またひさ様の書き残されたものの中には、忠作さんの名前は全く見当たりません。一説によると忠作さんは珍談、逸話の豊富な人で、文字を書かれず、人から聞いた話を代筆してもらったとも言われています。
ひさ様は教祖が井戸水を浴びせられたという風説を聞くたびに、『「老母様には一寸だって水なんかかけさせなかった」とさながら自分が咎められているかの様に、力説いたされました』(『ひとことはなし』二四六頁)とも記されています。
教祖にはひさ様が付き添われますが、付き添いをゆるされ、夜具類は何一つ与えられない中、座布団を二枚持ち込められたのも、「其真の心(ひさ様の)ニ署長初ぢゅんさもみな~~かんじて、おひさ様のゆふ事ハみな~~ゆるしてくれたる事であり升」(『静かなる炎の人』一二二頁)と記されていますように、警察側に教祖の御健康を気遣い、配慮があったためと考えられます。
教祖の最後の御苦労を打擲説を肯定して、イエスの十字架の磔刑と重ねて見る見方もありますが、言語道断というほかありません。
イエスの磔刑の様子については、『マタイ伝』二七章に詳細に記されていますが、イエスはユダヤ人の王として、ユダヤ教の正統派であるパリサイ派、サドカイ派の反感を買い、ローマ帝国の支配下にあったパレスチナの地に政治的危険をもたらす人物と映り、約二年間の伝道はローマの国法にふれるものとみなされ、政治犯としてエルサレム門外のゴルゴタの丘で処刑されたわけです。また直前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお捨てになったのですか)と叫んだと言われています。イエスを「神の子」であるとする信仰は、死後になって初めて弟子たちの間に芽生え、キリスト(救世主)であるとの認識も成立するようになります。
ところで打擲説の認否にかかわらず、教祖は三十年来の寒さの中、お休みのときは「上に着て居られる黒の綿入を脱いで、それを被り、自分の履物にひさの帯を巻きつけ、これを枕として寝まれ、分署から支給されるものは何一つ召し上がられず、梶本家からの鉄瓶に入れた白湯のみをお飲みになられておられたためか、分署から帰られてから連日お寝みになられていることが多かったようです。また「耳は聞こえず、目はとんと見えず、という状態であった」(『根のある花、山田伊八郎』八一頁)と記されていますが、これをどのように受け取ればいいのでしょうか。
『教祖伝』に教祖の御苦労については「親神が連れて行くのや」、「皆、親神のする事や」、「とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや」(二九〇頁)と記されています。ということは教祖の御身が不自由になられたのも、親神のされることとなります。
『おふでさき講義』に「十一に九がなくなりてしんわすれ 正月廿六日をまつ」(三、73)は明治二十年に教祖が現身をかくされる御予言である、と説明されています。おふでさき第三号は明治七年一月より書かれたもので、この年十一月大和神社での祭神問答をきっかけにして、十二月に山村御殿への御苦労が始まります。
そして十二月二十六日に四名の者に身上だすけのさづけが渡されます。さづけは「存命の理」に基づくことを考えますと、教祖は現身をもたれたままで、身体的制約のため不十分ではありますが、「存命の理」としてのお働きを具体的な形で示され始めたと考えられないでしょうか。
従って分署から帰られて十二日目の三月十二日のお言葉、「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな」(『逸話篇』一八五)の「その働き」とは「存命の理」としてのお働きで、現身をもたれていることによって、制約されない自由なお働きができないと考えることができます。また分署からお帰りになられた三月一日は陰暦の正月二十六日で、それからちょうど一年後に教祖は「やしろの扉」を開かれ現身をかくされますが、その一年間につとめの急き込みとともに「存命の理」の信仰を確立するための教祖のさらなる御苦労が続けられることになると悟らせて頂けるのではないでしょうか。
最後の御苦労を通して教えられますことは、蝉の抜け殻同然の分署を訪れ、そこでの御苦労を涙ながらにしのび、たすけ一条の決意をするという皮相的なことではなく、私たち子供の成人の鈍さゆえに、教祖のその御苦労が百十五歳の定命を二十五年縮められ現身をかくされる遠因となったことへのおわびと、たすけ一条の根拠であります、ぢばを中心とする神一条の信仰、「存命の理」への信仰、「元の理」によって教えられます生命の根源への思慕、つとめ一条の信仰を改めて問い直すことで、それによって真のたすけ一条の心定めができるのではないかと思われます。
0 件のコメント:
コメントを投稿