教祖を身近に 連載 第九回 「水を飲めば水の味(三)」
「水を飲めば水の味がする」のお言葉を生命の根源という観点から見直しますと、ふつうこのお言葉は「枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人」と違って、私たちは健康に生かされている、だから有難い、と「健康」にポイントがおかれ理解されていますが、それにとどまらず「生かされている」ことにポイントをおいて、生かされていること自体が有難い、第一義的な御守護であることが意味されているように思われます。なぜなら「水を飲めば水の味」の境地は貧におちきることによって、物や自己への執着をとり、心すみきった末に到達されるもので、もはや健康や病気、苦や楽、貧富にとらわれないそれらの対立をこえた境地だからであります。
従って「水を飲めば水の味」とは、単に生かされている喜びがわかるとか、物への執着をとったあとの単なる精神的な救い、魂の救いを示されたものではなく、まさに「こゝはこのよのごくらくや わしもはやくまゐりたい」(四下り、九ツ)の境地であり、神人和楽の陽気ぐらしとは何かを、人間にとって救済の完成とは何かを端的に示されたお言葉であると思います。「水を飲めば水の味がする」と赤貧の中で物静かに語られているように一見思えますが、教祖はそれによって燃えるような「生命の讃歌」を朗々と声高らかに歌い上げられたのではないでしょうか。
はやくとしやんしてみてせきこめよ
ねへほるもよふなんでしてでん(五・64)
ごのねへをしんぢつほりた事ならば
ま事たのもしみちになるのに(五・66)
このおふでさきの「ねへほるもよふ」を貧におちきることと悟りますと、貧におちきった末には「ま事たのもしみち」、「ここはこのよのごくらく」の境地に至ることが意味されているのではないでしょうか。
この境地では生かされていることが第一義的な御守護とうけとられますので、病気がたすかる、事情が解決されるという御守護はあくまでも第二義的な、生かされていることに比べて小さな御守護ということになります。
江戸時代の国学者本居宣長の「神のめぐみ」と題する一節を紹介してみましょう。
「たとへば百両の金ほしき時に、人の九十九両あたへて、一両たらざるが如し、そのあたへたる人をば悦ぶべきか、恨むべきか、祈ることかなはねばとて、神をえうなき(不要の)物にうらみ奉るは、九十九両あたへたらむ人を、えうなきものに思ひてうらむるがごとし、九十九両のめぐみを忘れて、今一両あたへざるを恨むるはいかに」(『王勝間』)
つまり生かされているということはそれだけで「九十九両のめぐみ」を与えられているということで、物、形の上の御守護は、たとえそれが巨億の富であっても、所詮一両、一分にもみたないもの、その得失に一喜一憂する価値のない第二義的なものにすぎないということになります。
いまゝでも今がこのよのはじまりと
ゆうてあれどもなんの事やら(七・35)
この意味は難解で、色々の解釈がありますが、私たちが今、ここに生かされているということが、人間創造のときの珍しい働き、守護によってである、という意味ではないでしょうか。親神は絶対者で時間をこえ永遠の今を生きられますので、過去はなく、人間創造のときも、現在も常に今をいうことになります。従って、
これからわ神のしゆごとゆうものハ
なみたいていな事でないそや(六・40)
に明示されます並大抵な事でない、御守護とは、単に五尺の人間に成長させるまでの御苦労であるのみならず、同時に今現在私たちを生かし育て成人させる上での御苦心ということにもなります。
「今がこのよのはじまり」とは、私たちが今ここに生かされているということは、親神の並大抵でない御苦労によってであり、何ものにもかえがたい尊いものである、ということを今まで説いているが、中々分かってもらえないということ、「九十九両のめぐみ」が足もとに歴然として与えられているのに、それがわからず、一両・一分足りないことにばかり目をうばわれているということであり、そこには親神のそのことを何とかわかってもらいたい、との切なる願いがあるように思われます。
「九十九両のめぐみ」を生かされている大恩と考えますと、病気、事情の御守護はあくまで小恩にすぎず、この小恩への報恩にとどまらず、大恩への生涯末代の報恩を教祖はひながた五十年の前半の二十五年間の貧におちきる道中によって、私たちに教えられたのではないでしょうか。貧におちきることは立場の上下、信仰年限の多少にかかわらず、陽気ぐらしを求める者にとって追求されなければならない永遠の課題である、との認識が今必要とされていると思われます。
「人間はただ生きているというだけですごいのだ」、「最近では、人間の値打ちというものは、生きているーこの世に生まれて、とにかく行きつづけ、今日まで生きている、そのことにまずあるのであって、生きている人間が何事を成し遂げてきたか、という人生の収支決算は、それはそれで、二番目ぐらいに大事に考えていいのではなかろうか、と思うようになりました。」(五木寛之『大河の一滴』)
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