悪風にたとえて
「さあ~~悪風に譬えて話しょう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時は、ジッとすくんでいて、止んでから行くがよい。悪風に向こうたら、つまずくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば、行けん事はないで。」、「さあ一時に出たる泥水、ごもく水やで。その中へ、茶碗に一杯の清水を流してみよ。それで澄まそうと思うても、澄みやすまい。」(『逸話篇』一八三)
これは明治十八,九年頃、僧侶、神職その他世間の反対攻撃がはげしくなってきて、一部の者が、それに対する積極的な抗争を訴えたときに、教祖が諭されたお言葉で、私たちにとっても節に対処する上で大切なことを教えられているように思われます。
明治二十九年四月六日に発布された秘密訓令をみてみましょう。これは政府による本教への弾圧、撲滅を意図するもので、これによってたすけ一条の道が阻止され、様々な改革を余儀なくされます。松村吉太郎著『道の八十年』によりますと、従来の神楽づとめを改め、御面机上に備え、男子のみで「ちょとはなし」と「かんろだい」のつとめだけつとめる(朝夕のつとめも同じ)、医師の手を経ない以上みだりにおたすけしない(さづけが医療行為の妨害とみなされたため)、教会新築工事は華美にならないこと、神鏡を目標とし、本部より下附するものに限る、をびや許しは熱心な信者に限り授与する、お守りは席順序を運ぶ者に限る、教理の説き方を一定にする、天理王命を天理大神と称し奉ること、楽器は三味線、胡弓を用いないこと等の改革、制約を課せられることになります。この一件一件について神意を伺い、お許しをいただきますが、このことは秘密訓令の発布から十五日後のおさしづ「これがならんと言えばはい、いかんと言えばはい、と答えて置け。」との指示によると思われます。
明治二十九年四月二十一日のおさしづに次のようなお言葉もあります。「反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。」これは、親神、教祖の親心を示されるとともに、信仰は神一条の実践が大切であること、これがないと信仰に反対しているのと同じであることを意味していると思われますが、そのあとにつづく「一時見れば怖いようなもの。怖い中にうまい事がある。水が浸く、山が崩れる、大雨や~~。行く所が無いなれど、後はすっきりする。」、「道の中の反対は、肥をする処を流して了うようなもの」はどのような意味をもつのでしょうか。
これは「泥水すっきり流して了う。泥水の間は、どんな思あんをしてもどうもならん」といわれますように、泥、埃の心をそうじするための大節であり、「道の中の反対」をする者をはっきりさせる、という意味をもつと思われます。
『道の八十年』によりますと「黒ほこり、泥ぼこり立ち切ってある。この黒ほこり、泥ぼこりの中で、どうして守護できるか」(M30.2.1)の「黒ほこり、泥ぼこり」とは橋本清、前川菊太郎の二人で、それぞれ明治三十年十二月四日、十一日(『天理教史参考年表』による)辞職と記されています。又両名は明治三十一年本部を相手に5千円を恐喝、橋本は翌年『天理教の内幕』(一部の信者の教理の誤解を針小棒大にしたためたもの)をちらつかせ、再度の恐喝事件を起こしたとも記されています。
又明治三十年には平安支教会長飯田岩次郎が水屋敷事件(安堵事件ともいう)をおこします。飯田は水のさづけを許され、不思議なご守護をみせて頂いていましたが、そのうちに月よみのみことの天啓をうけたと称し、おぢばは火の屋敷で、平安の屋敷は水屋敷で、水は火にまさるので、この水屋敷が元始まりの屋敷である、と唱えるようになります。
この件に対しておさしづを伺うと「水屋敷と言うた事は無い。人に授けたる」(M30.8.2)、「二所も三所も出来るものなら、元のやしきは要らんもの。元分らんから、そういう事するのや」(M30.11.13)と厳しく戒められています。
慶応元年の助造事件につづく異端の発生に対して、本部員会議の結果、十一月十八日飯田は免職となり、平安支教会は竜田に移され、板倉槌三郎氏が新たに会長就任となります。一見落着をみますが、助造事件とは本質的に解決において相違があるように思われます。
水屋敷事件では会長の免職、交代、教会の移転という法的な措置が講じられただけで、異端という泥はいわばフタをかぶせられただけではないでしょうか。水のさづけの効能に対する慢心、親神、教祖のお働きを無視する自分の力への過信、高慢の心は少しも払われることのない表面的な解決ということになるでしょう。茶碗一杯の清水で、泥水を「澄まそうと思うても、澄みやすまい」とはそういう意味ではないでしょうか。
水屋敷事件では泥を見えない所に移したにすぎないのに対して、助造事件では「助造も金剛院も、平身低頭して非を謝した」(『教祖伝』六六頁)のみならず、土産を人足をこしらえてお屋敷まで届けています。教祖は助造の異端(針ヶ別所村が本地で、庄屋敷村は垂迹と唱える)に対しては、断固たる態度で厳しく対応されていますが、反面では事前に三十日間の断食(「たすけ一条の台」という意味については既述)をされ、「わからん子供がわからんのやない。親のをしへがとどかんのや」(『正文遺韻抄』五六頁)と思し召され、「あいそをつかさず、くりかえし~~御親切におとき聞かし被下ました」ことによって、助造が非をわびるようになり、異端の泥は払われたのではないかと悟らせて頂きます。助造の神名を唱えさせて頂きたいとの願いにも「唱へる丈はゆるしておかうと被仰下て、まず何事もなく治まって、おかえりあそばされました。」(同、六十頁)と記されています。
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