2011年10月14日金曜日

No.48 教祖を身近に 連載 第48回 本当のたすかり 

教祖を身近に 連載 No.48 本当のたすかり

「あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。」(逸話篇 四七)

 このお言葉は、山本いさが年来の足の身上の御守護を頂いてから、手のふるえがでてきて、中々治らないので、教祖におたすけを願い出たときに、教祖が仰せられたお言葉です。「すっきり救かる」は身上が全快し、病んでいるところがないことを意味しますが、「真実救かる理が大事」、「本当のたすかり」とは何を意味するのでしょうか。

   東本初代中川よしさんのおたすけをみてみましょう。
 中川さんは明治二十五年から郷里の丹波での布教を開始されます。「一人を助けるのに百里を歩く」(丹波、ぢば間を二往復)決心をされ、時には九日間絶食、不眠不休、真冬、真夜中の水行、願いづとめという超人的なおたすけを続けられます。死者が蘇生する等の不思議だすけが続出しますが、東京布教にでて四年後に丹波に帰ったときに、助けられた人々が出直し、道からはなれている姿を見て、大変落胆し、次のような反省をされます。
「私の丹波におけるお助けは間違っていた。私は、助かって貰いさえすればよいという考えから、身上助けばかりしていて、精神を救うということに気がつかなかった。そのためにこんなことになった。可哀想なことをしてしまった。私が間違っていた」
                        (『中川よし』三五〇頁)
 ここで述べられている「精神を救う」ことへの布教方針の転換は、身上だすけをしたことが間違いであったからではありません。

 信仰とは心、魂の救済が本義で病だすけは大切ではない、病だすけを標榜する宗教は低級であるとう見方がこれまでも、否現在でも根強く残っています。従って「精神を救う」とは身上助けをやめて、心の救済のみを目指すように思われますが、決してそうではありません。

 心身問題(心とは何か、心身はどのように結びついているのかという問題)は現在でも哲学上の難問の一つといわれています。心身は一如、一つのものとみなしますと、身体をはなれた心、精神だけの救いというのは意味がないと考えられます。教祖は「すっきり救かる」つまり病だすけに対して、心だすけ、「精神を救う」を対置されるのではなく、「真実救かる」つまり心身ともに救かることを教示されています。「真実救かる」、「精神を救う」とは具体的に何を意味するのでしょうか。

 まず第一に、前生いんねんが悟れるようになることです。教祖は手のふるえ、生活に支障のない身上が残っていることによって、「前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで」と仰せられています。今生における通り方、心づかいの反省だけでは不十分で、前生(信じることは難しいのですが、出直しが本当に胸に治まるとき、出直してこの世に帰ってくる自分からみると、今の自分は前生の自分ということになります)を視野に入れた反省、さんげが不可欠となります。

 第二に神恩がわかるようになり、恩報じができるようになることです。東本初代は次のように述べています。「世の中は、恩を受けることに我ままとなり、恩を果たすことに気ままになっている。これでは、日本の国どころか、自分の身が、精神が持たぬこと当然である。金儲けを教える学校はあっても、果たしを教える学校はない」(三五一頁)

 問題となるのは、何に対する報恩かということです。

     「大恩忘れて小恩送るような事ではならんで。」(M3424

                         と教示されています。
 これは人への小恩にとらわれて、神への大恩を忘れてはいけない、と解されますが、それだけではなく、神恩にも大恩、小恩があって、救けられるということは小恩で、生かされている、身体をお借りしているということが大恩であることを教えられているのではないでしょうか。

 病気を助けて頂くということは御守護であることは言うまでもありませんが、救けて頂いて元の健康な身体に復すことよりも、生かされていてその健康な身体をこれまでずっと維持して頂いていることの方がはるかに大きな御守護と言えるのではないでしょうか。病気になってはじめてその大恩に気づき、それへの報恩のたすけ一条の心定めをすることによってつとめ、さづけによって救けて頂けるのではないでしょうか。すっきり救かっていなくても、真実助っていることが成立するのも、この大恩への生涯末代の報恩の念があるからと考えられます。

 第三に病の見方がかわり、病を御守護の一つの姿とうけとれるようになることと思われます。
 本教では病の元は悪霊、怨霊のような外来のものではなく、あくまでも各自の心であると教えられるとともに、病は神の残念立腹、急き込み、よふむき(用向き)、意見、みちをせ(道教え)、手引き等と教えられていますが、又「ていり」(手入れ)とも教えられています。残念立腹は一見キリスト教の神の怒りのようにうけとれますが、そのあとに「心しだいにみなたすける」、「ふんばりきりてはたらきをする」(十五、1617)と示され、神の愛の発動であることが分かります。急き込み、用向き、意見、道教えは病は神からのメッセージであり、それが正しくよみとれることがたすかりであると悟れますが、では「ていり」とは何を意味するのでしょうか。

          これをみよせかいもうちもへたてない


          むねのうちよりそふぢするぞや

          このそふぢむつかし事であるけれど


          やまいとゆうわないとゆてをく


          どのよふないたみなやみもでけものや

          ねつもくだりもみなほこりやで    (四、108110

 三番目のおふでさきは、病の元が埃であることを単に示しているように思えますが、前の二首をよくみますと、病とは「そふぢ」(掃除)でもあること、つまり病によって神が埃を掃除して下さっていること、それが「ていり」であることを教えていると悟ることができます。「やまいとゆうわない」とは病そのものがないという意味ではなく、病は神による強制的な埃の掃除で、忌避されるものではなく、痛みの伴う御守護である、ということではないでしょうか。このことはガンを例にとりますと医学的には次のように説明されます。

 石原結実氏は『病気にならない生活のすすめ』の中で「ガン性善説」を唱えています。「ガン細胞は血液の汚れを処理し、血液をきれいにしている。ガン細胞も白血球と同様に身体のなかにたまった老廃物を処理するために必要で、浄化装置が手術で取り払われたら、生きている限り、新しい浄化装置をつくる、それが転移と考えられる」(四八~四九頁)

 第四に、「めづらしたすけ」が究極のたすけであると悟れるようになることです。

          たん/\と神の心とゆうものわ


          ふしぎあらハしたすけせきこむ   ( 三、104)

          たすけでもあしきなをするまてやない


          めづらしたすけをもているから    (十七、52)

 本教の救済において、不思議だすけと「めづらしたすけ」が明確に分けられています。前者はガンが救かる等のたすけで、後者は「病まず死なず弱らん」、「百十五才定命」のたすけで、このたすけの条件として、埃を完全に払うことが求められます。逆に考えますとこの「めづらしたすけ」が実現していない限り、埃は残っているということになります。生かされている大恩への報恩をたすけ一条の御用を通して生涯末代続けさせて頂くことによって、前生からの埃が少しづつ払われ、日々「陽気づくめの心」で通れるようになる、これが「真実救かる」、「本当のたすかり」であると悟らせて頂きます。

          ことしから七十ねんハふう/\とも


          やまずよハらすくらす事なら

          それよりのたのしみなるハあるまいな


          これをまことにたのしゆんでいよ    (十一、59 60

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