2011年10月11日火曜日

No.20 教祖を身近に 連載 第20回 宮池の問題 

教祖を身近に No.20
      宮池の問題
「或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。しかし、いよ~~となると、足はしゃくばって、一歩も前に進まず、「短気を出すやない~~。」と、親神の御声、内に聞こえて、どうしても果せなかった。」(『教祖伝』三十一頁)
 
これは教祖が月日のやしろとなられてからごく最初の頃の出来事で、晩年の御苦労とともに、最も多く教話などに引用され、聞く者に共感と涙をさそいましたが、これの解釈については、大別して次の二つが考えられます。第一は教祖成人論、つまり教祖は月日のやしろとなられたときは、まだ人間性を残していて、明治七年赤衣を召されるようになって初めて親神の御心と一つになられたという見方に立つもの。第二は立教以来一貫して神性をもたれ、人間性は一切ないという見方に基づくもの。このほかに、この出来事は教祖五十年祭頃の教祖劇の脚本で、実話ではなく、「作者は死んだ方がましだと思えるような迫害の中を教祖は通られたのだ、と誉めているつもりなのです。しかし、それでは教祖の理論は少しの迫害でも死にたくなってしまう程のものであった、ということを意味していることに気が付いていないのです。」(八島英雄『中山みき研究ノート』)という稚拙で論外の見方や、教内においても教理の整合性、統一性を求める立場から、この問題を実話としない意見もありますが、飯田照明氏は『お道の弁証』において、五つの宮池問題を否定する論拠を取り上げ、検討されていて、この問題は実話であることを認められています。(二二一~二三一頁)
 
宮池問題のまず第一の解釈は、復元経典が出される以前においてよくみられたもので、次のように記されています。「実に恐れ多い事ながら、御教祖様のけなげなる丈夫の御心でありてすら遂に三度までも、井戸ばたへ御たちなされたのであります。三度溜池へはまろうとなされたのであります。ここまで御決心を被遊、六度までも身を殺してと思召し立ちたまふその御心中の御せつなさ、いかがでござりませう。」(『正文遺韻抄』三八頁)
 親神の思召と周囲の者、とりわけ夫善兵衛様の思いの間に立って苦悩される教祖のお姿に限りない共感を寄せ、多くの人は涙するとともに、神の道を求める厳しさに心を引き締めたわけですが、この解釈は二代真柱様の教祖論からは成立しないもので、人間としての教祖の側面が強調され、本来のお姿が歪められることになります。
 
これに対して第二の解釈では、教祖は立教以来月日のやしろとして、常に親神の御心で判断され、行動されたと考えられますので、ひながたとしての身投げ、私たちにとっての身投げの意味がわからなくなります。
 教祖は月日のやしろとして、親神の思召しを啓示された教えの親であられるとともに、人間救済の先頭にお立ち下され、私たちを導かれるひながたの親でもあられます。「人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された。」(『教祖伝』三十頁)と教えられますが、身投げはどのように考えても「苦難に処する道」の一つとして、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」というジレンマに立たされたときのとるべき行動とは思われません。苦難からの単なる逃避になってしまいます。また教祖が私たちのために演技、芝居をされたとはとても思えません。
 宮池の問題は私たちにとってのひながたにならないのであれば、それをどのように考えればいいのでしょうか。
 
『逸話篇』一八五に「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも必ず思うな。」と記されています。これは明治十九年三月、教祖が櫟本分署からお帰りになられて、しばらくしてから仰せられたお言葉ですが、ここにヒントがあるように思います。「起きてるというと、その働きの邪魔になる」とは、教祖は現身のままで「存命の理」としてのお働き(『逸話篇』四四、八八参照、御魂だけのお働き)があられ、現身はそのお働きの妨げとなるもので、教祖はお寝みになられている時も、「存命の理」としてのお働きをされていた、と考えられないでしょうか。
 
荒川善廣氏の月日のやしろの解釈(『「元の理」の探究』)をみてみましょう。氏は魂とは心身現象の生起する場所、容器と考え、「やしろ」とは教祖の身体ではなく、魂で、身体は「やしろの扉」に相当すると考えています。従って教祖は「やしろの扉」を開かれる、現身をかくされることによって、「月日のやしろ」としてのお働きは、身体的制約を脱して、完全な生動性を全宇宙的な広がりにおいて、発揮される、とみなされます。
 
このように考えますと、宮池の問題はあくまで月日のやしろとしての立場で推測しますと、教祖は月日のやしろとなられてすぐに「存命の理」としてのお働きを持たれておられ、身投げによって、身体的制約を脱せられ、月日のやしろから、いきなり「存命の理」としての教祖におなりになろうとされ、それを親神によって「短気を出すやない」、時期尚早として引き止められたのではないでしょうか。
 もしその時現身をかくされていますと、ひながたの親としての五十年の道中とともに「存命の理」としての教祖のお働きも、私たち人間に教えられることもないことになります。
 荒川氏は、ひながたの五十年について次のような見解を示しています。
 『教祖が「ひながたの親」として通られた五十年は、単に言葉を介して人々の記憶にとどめられているだけでなく、たとえ意識されずとも、客体的不滅性として、後続の人々がそこから新たな経験を生み出すための実在的基盤を成している。』(百十一頁)つまり「たすけ一条の台」としてのひながた五十年と思いますが、これも結局は宮池の問題があってはじめて成立してくるのではないかと考えられます。

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