教祖を身近に 連載 第三回 「大和神社の節」
「不足言うのではない。後々の話の台である程に。」 (『教祖伝』五九頁)
「学問に無い、古い九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい。」 (『教祖伝』一一七頁)
教祖伝には大和神社の節が二回でてきます。いずれの節も天理教史においては極めて意義深いものです。
最初の節は元治元年十月で、つとめ場所ふしんの棟上げの翌日(二十七日)山中忠七宅へ棟上げの祝いに十二人が接待されて行く途中、教祖からいわれた「行く道すがら神前を通る時には、拝をするように」とのお言葉を思い出し、社前で「なむ天理王命」と拍子木、太鼓を鳴らしながら声高らかに唱えます。このために一行は三日間留置され、折角出来かかっていた講社も止まり、信者もはなれてしまいます。
最初のお言葉は、こかん様の「行かなんだら宜かったのに」との不足に対する教祖のお言葉で、二つの意味があるように思います。
まず第一は、それまでについてきた信者を仕込み、神一条の精神を確立させる、拝み信心、御利益信仰と本物の信仰を区別し、ふるいにかけるということ。元治元年までの信仰は、いわば幼稚な段階で、人々は教祖にたすけて頂きたいと願ってお屋敷にかえり、教祖にたすけてもらい感謝するだけで、さらに一歩進んで教祖のお心を求め、そのお心に近づくための努力は見られません。このような信仰から脱皮させるために与えられたのが、つとめ場所のふしんであり、大和神社の節であると思います。
本席飯降伊蔵さんは、奥さんのおさとさんの産後の患いをたすけて頂いた御恩を生涯忘れることなく、元治元年の節にもいささかも心倒すことなく、唯一人になっても報恩の道を通られます。そして次のおさしづをいただいて本席としての理をつまれます。
「丸九年というく。年々大晦日という。その日の心、一日の日誰も出て来る者も無かった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりていようく随いて来てくれたと喜んだ日ある。これ放って置かるか、放って置けるか。それより万事委せると言うたる。」
(M34・5・25)
(M34・5・25)
第二の意味は、格式が高く由緒深い神社に対して、天理王命、天理教として公式に名のりをあげた、つまり節という形ではあるが、教祖が間接的ににをいがけ、高山への布教を始められたことであると思われます。
明治七年、十一月、元治元年からちょうど十年後に二回目の節であります。教祖は仲田、松尾の両名に対して「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」といわれます。両名の質問に神職は祭神は記紀(古事記、日本書紀)に記された通り、と述べ立てます。「どのような守護を下さる神様か」とさらに問われると、守護の点については一言も答えることができなかったので、両名はおふでさき三号、四号をだして、「当方の神様は、かくくの御守護を為し下さる、元の神、実の神である」と説明します。
この祭神問答は元治元年の節と比べると、節といえるような出来事ではないように見えますが、これをきっかけとして教祖に対する迫害、警察への留置、投獄が始まることを考えますと、極めて意義のある節ということができると思います。
両名が帰ると大和神社の神職が、又翌日には石上神宮から神職が五人連れでお屋敷へやってきます。教祖は、衣服を改めた上、直々お会いなされ、親神の守護について詳しく説き諭され、神職達の「それが真なれば、学問は嘘か」との問いに答えられたのが、二番目に引用した先のお言葉であったのです。
「九億九万六千年間のこと」とは「元の理」によると、「九億九万年は水中の住居」、「六千年は智恵の仕込み」、「三千九百九十九年は文字の仕込み」と教えられますので、「文字の仕込み」つまり学問成立以前のこと、つまり人間創造、生命の根源を世界へ教えること、外に向っての直接的なにをいがけが明治七年の大和神社の節の意味であり、その前段階、準備として元治元年の節があったと悟ることができます。
このことは次のおふでさきからも分かります。
ことしにハめつらし事をはじめかけ
いまゝでしらぬ事をするぞや(三・42)
『おふでさき註釈』によりますと「一般の人々ばかりでなく高山の人々にもこの教を知らしたいと十月にはにをいがけのために、仲田、松尾両名を大和神社に遣わされたその結果、神職とか官憲の注意をひく事になり、陰暦十一月十五日に山村御殿へお出掛け下されたのを初めとして、その後しばしば圧迫をこうむったが、親神様は、これをお道の弘まる一つの道筋として、むしろお望みになったのである。又、赤衣をお召し下されたのも、この年からである。」と説明されています。赤衣とは月日の理で、元の神、実の神の象徴でありますから、教祖は目にみえる形でも、親神天理王命を外に向って示されることになったのです。
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