2011年10月14日金曜日

No.46 教祖を身近に 連載 第46回  応法の問題 

               応法の問題

「明治十三年九月二十二日(陰暦八月十八日)転輪王講社の開筵式の時、門前で大護摩を焚いていると、教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、赤衣をお召しになったままお出ましなされ、お座りになって、一寸の間、ニコニコとごらん下されていたが、すぐお居間へお引き取りになった」(『逸話篇』七三

  今回は五十年のひながたにおける応法の問題について考えてみましょう。

 応法については秀司先生の場合と、明治十四年以降の教会公認運動に分けて考えられますが、ここでは秀司先生に関する応法だけを考えてみます。
 秀司先生についてみますと、二つの一見すると両立しないような教祖に対する態度がみられます。どこまでも教祖の仰せに素直に従う面と、思召に背いてまでも貫徹しようとする姿勢であります。前者については『教祖伝』に散見され、問題はありませんので、後者について検討してみましょう。

 慶応二年秋、小泉村(大和郡山市)の不動院の山伏達がお屋敷に乱入し、乱暴狼藉を働くという事件があります。同じ日に山中忠七宅へものりこんで、乱暴を加え、その足で古市代官所を訪ね、公許なしに信仰活動をしているとして、お屋敷を訴え出るに至ります。代官所での事情聴取では不都合な点はすこしもなく、公許を得ていない点だけが問題となったため、秀司先生は、当時神道界に絶大な権威を保っていた京都にある吉田神祇管領に願い出て、七日間かかって慶応三年七月二十三日付で許可を得ることができます。しかしこれは本教の公認というものではなく、単に神道の行事を百姓の身分のまま行うことのできる許可にすぎません。
 
教祖はこれに対して「吉田家も偉いようなれども、一の枝の如きものや。枯れる時もある」と仰せられ、反対されています。
 三年後の明治三年、吉田神祇管領は廃止され、公認は無効になってしまいます。教祖はその公認の間に、慶応二年から明治三年の間に、かぐらづとめの第一節、一下りから十二下り目のみかぐらうた、第二節、よろづよと順次教えられます。

 明治八年民権運動の高まりの中、許可のない集会活動などに対する官憲の目が厳しくなりはじめ、九年には個人の邸宅内に神仏をまつり、他人を参拝させてはならないという法律がだされ、人々のお屋敷への参拝もままならないようになってきましたので、秀司先生は大勢の人が寄り集まる口実のために、表向き風呂屋と宿屋を営むこととし、堺県へその鑑札を受けにいき、明治九年春の初め頃許可を得ます。

 これに対して教祖は「親神が途中で退く」と厳しくお止めになり、明治九年、蒸し風呂に薬種を用いたとの疑いで、秀司先生は三十日間の拘留に、翌年には村人の根拠のない密告によって四十日間の留置に処せられます。
 風呂屋、宿屋は教祖が「親神が、むさくるしいて~~ならんから取り払わした」と仰せられ、秀司先生の出直し後、明治十五年十一月八日、十四日にそれぞれ廃業されることになります。

 明治十三年になり、教祖はおつとめの完修を急き込まれるようになられますが、政府から集会条例が出され、官憲の監視が一段と厳しくなってきます。そこで秀司先生は元々修験道系で、明治になって真言宗に所属するようになった公認宗派の金剛山地福寺に願い出てその配下になる決意をし、九月二十二日転輪王講社の開筵式を行います。(地福寺とのつながりは、明治十五年十二月十四日付で切れてしまいます)

 これに関して八島英雄は「教祖亡き後、自分が頂点に立つ教会を組織し、人々をその傘下に結集させ、中山家の安泰を計るにはどうしても高弟達の協力が必要でした。そこで秀司は、教祖が最初から使っている仏教系の天輪王という神名を使おうと考えました」(『研究ノート』205頁)と述べていますが、このような見方は全くの見当はずれで、この応法はあくまでも政府の弾圧をのがれ、教祖を守ろうとする窮余の一策であると思われます。

 この応法の行為に対して教祖から「そんな事すれば、親神は退く」と厳しく仰せられます。また教祖は開筵式の八日後の九月三十日、初めて三曲をも含む鳴物をそろえてのおつとめを応法を雲散霧消させるべく敢行されています。この教祖の反対の中、あえて応法にふみきったのも、神一条にそわない単なる人間思案のゆえではなく、中山家の戸主として誰よりも母親である教祖の御身の安全と人々の無事を願い、たとえ我が身はどうなってもとの命をかけての強い決意からであったと思われます。

 このように考えますと、秀司先生の教祖に対する一見対立するような態度は、一つの親を思う心から発するものとして受け取れるのではないでしょうか。

 ところで秀司先生は転輪王講社の開筵式を終えて間もなく、その年の暮れから身上がすぐれなくなり、翌十四年四月八日六十一才で出直されます。教祖は秀司先生の額をなでて、「可愛相に、早く帰っておいで」と長年の労苦をねぎらわれ、秀司先生に代わって、「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで」と仰せられます。この出直しはどのように受け取れるでしょうか。
 秀司先生は教祖の言われる神一条のお言葉に何度も背いたゆえに出直されたと一見思われます。「親神は退く」を出直すことと受け取ると、そのように受け取れます。

          みのうちにとこにふそくのないものに

          月日いがめてくろふかけたで
                          (十二、118)
この意味は『おふでさき註釈』に「秀司先生は、もともと身体に何処も故障が無いのに、旬刻限が来て親神様がこの世に天降られる機縁の一つとして、わざわざ秀司先生の足に患いをつけられた。この身上がたすけ一条のための試しであり、親神様の御意図に基づくものである」と説明されています。

 また秀司先生ついては「32、つきよみハしゃちほこなりこれなるハ にんげんほねのしゅごふのかみ 33、このかみハとふねん巳の六十と いゝ才にてぞあらハれござる」(『和歌体十四年本』山沢本)と教示されますように、元の理における月よみのみことの御魂のお方といわれています。
 
 ということは秀司先生の出直しも、神の思いにそわない埃や因縁、「ふそく」によるものではなく、出直しに至るまでの応法の道を含む通り方も、親神、教祖が神一条やたすけ一条を私たちに教えるために、試されたお仕込みやたすけの台という意味をもつのではないでしょうか。教祖は神一条、つとめ一条をより際立たせられるために、応法の道を一時的に黙認され、親神の思いをそのあとすぐに実現していくようにされたと思います。

 真柱様は次のように述べられています。
「いまの日本では、なんの懸念もなく、おつとめを勤めることができます。しかし神一条と人間思案の葛藤は、いろいろなところで現われてくると言えるでしょう。法的な制約はなくとも、あれがあるから難しい、これがあるから仕方がないと、目先の対応にばかり心を奪われていると、ついには根本を見失い、本来の姿から大きく逸脱してしまうことにもなりかねません。これはお互い心しなければならないことであります」
                  (立教一七一年春季大祭神殿講話)

 応法の問題は、教祖が御在世中の過去のことではなく、今の私たちにとってのものでもあり、存命の教祖から日々の生き方において、節に出会ったときに返答を求められている問題でもあると言えるのでないでしょうか。

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