2011年10月9日日曜日

No.8  教祖を身近に 連載 第八回 水を飲めば水の味(2) 

教祖を身近に 連載 第八回 「水を飲めば水の味(二)」

 貧におちきることは、大きなたすけ一条の道の確立に向かうという大前提の最初の段階であるという解釈もあります。これによりますと教祖は貧におちきることによって、たすけ一条の道、つまり「つとめとさづけ」の確立を目指されたということになりますが、「つとめとさづけ」と貧におちきることがどのようにつながるのか明白ではなく、「つとめとさづけ」の前段階として貧におちきる道中があるというにすぎないように思われます。
 たすけ一条と貧におちきることがどのようにつながるのでしょうか。
 
私の勝手な解釈かもしれませんが、貧におちきることは、たすけ一条の道中ではありますが、貧しい人をたすけることが直接の目的ではなく、人間をたすけるに当って、従来自明のように思われてきた人間とは、生命とは神とは何か、神と人間との関係は、たすかるとはどのようなことか、これらのことを貧におちきるという常軌を逸した御行為によって示されたように思われます。従って本格的なたすけ一条は、ようくこゝまでついてきた じつのたすけハこれかれや(三下り、四ツ)〔「これから」とは元治元年のつとめ場所のふしん、深谷忠政著『みかぐらうた講義』〕と示されますように、ひながたの後半二十五年間において展開されることになります。つまり教祖は貧におちきられることによって、「つとめとさづけ」を教えられるに先立ち、人間にとって救済の完成・成就とは何かを理屈ぬきに、正に体をはられ命をかけられて教えられたのですが、それが従来のものと根本的に異なるものでありましたので、常識はずれの御行為となったと思われます。
 
たすけ一条と貧におちきることのつながりについては、貧におちきることが、ふせこみ、たすけの台となっているという解釈があることを忘れてはならないと思います。
 前真柱様は『万人のひながた』の中で次のように分かりやすく説明されています。
「この二十年間の間、コツコツ、コツコツ、笑われ謗られる中をお通りくだされた教祖のひながたを、どういうふうに悟らしてもらうかと申せば、これこそ御守護を頂く伏せ込みであると悟りたい。御守護を頂くためには、伏せ込みがなけりゃいかん。花が咲き実が実るためには、やっぱり種を蒔かなけりゃならん。しかもその種も、真実の種でなけりゃいかん、真実の種。しかも、旬を見て蒔かなけりゃいかん。旬に真実の種を蒔くから、旬が来たならば芽が生える。それを育てれば花が咲き実が実るのであります。私はこれを、教祖のひながたに教えていただくように思うんです。」(百三頁)
 
教祖は私たちに貧におちきること、人への尽くしが「人の事してやるというは、これが台」(M31.6.3)と教えられますように、たすけの台、たすかる台であることを教えられただけではなく、教祖が約二十五年にわたって貧におちきられた道中そのものが、私たちが現在においても、たすけて頂くための台となっているといえるのではないでしょうか。「道の上の土台据えたる事分からんか。長い間の艱難の道を忘れて了うようではならん。」(M34.2.4)この「長い間の艱難の道」とはひながた五十年の道ですが、教祖の貧におちきられた道中を含む様々な御苦労が、「道の上の土台」、つまりたすけ一条の台となって、「つとめとさづけ」によって救けて頂けるのではないでしょうか。このように悟ることができますと、教祖が貧におちきられた道中が現代においても軽視することのできない、たすけに直結する極めて重い意義をもつものとして受けとられるべきものになるでしょう。
 それでは貧におちきる道中によって教えられた救済観とは何であるか、次に考えてみましょう。
 さて貧におちきる道中について様々な解釈を紹介してきましたが、哲学者ヘーゲルの言葉をヒントにしてもう一つの見方を考えてみたいと思います。
 ヘーゲルは滅ぶ、没落するを意味するドイツ語はzugrundegehenですが、これをZuGrundegehenZu,Grund,gehenは英語のto ground,go)と分解し、Grund(根拠、根源)に行く、帰ることと理解しています。これをヒントにしますと、母屋とりこぼちは中山家の没落を意味しますが、それは何もなくなってしまうことではなく、根源への立ちかえり、全ての人間に無条件に与えられている生命の根源にもどることを意味すると考えられます。このことは、よろづたすけの道あけであります、をびや許しが母屋とりこぼちの翌年嘉永七年に始められていることからもわかります。をびや許しは人間の生命誕生の許しで人間宿し込みの元のぢば、人類の故郷において頂くもので、それによって安産の御守護を頂くことは言うまでもありませんが、改めて生命の根源に思いを致すことを教えられているのかもしれません。
 教祖が母屋とりこぼちの後に通られた赤貧のどん底の生活において語られた「水を飲めば水の味がする」とのお言葉の意味も、そのような観点からさらに深く味わわせて頂かねばならないのではないでしょうか。

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