教祖の御遺骸
「身はかくすが、たましひは此の屋敷に留まって生前同様、万助けをする。此の身体は丁度身につけている衣服の様なもの、古くなったから脱ぎすてたまでの事、捨てた衣服には何の理もないのだから、何処へすてゝもよい」(『ひとことはなし その二』七三頁)
教祖は明治二十年陰暦正月二十六日に現身をかくされますが、早速に御遺骸をどこに御埋葬するかの問題がでてきます。「御葬式前後」の章に詳しく記されていますので紹介します。
埋葬地について甲論乙駁となりますが、代表的なものをあげますと、一、教祖の御魂とお屋敷とは離すことの出来ない因縁にあるので、お屋敷にお埋めする、二、法律では墓地以外の土地での埋葬は禁じられているので、どこか適当な場所に新墓地を設ける、三、新墓地を願い出てもすぐに許可されないので、御遺骸をお屋敷に安置することができない。まず頭光寺の中山家の墓地へ一旦埋葬し、新墓地の許可があり次第、御改葬する、四、御遺骸を三島村から持ち出すのは三島村の名誉にかけて不都合で、他村(頭光寺は三島村でない)にお墓ができると三島村は潤わないので、火葬にして御遺骨を三島村におくようにする等で、四は「天下一人ノ我恩人、老母ヲ火葬ノ如キ酷葬ニ致シ難シ」との初代真柱様の御意志により一蹴されます。一、二,三の意見は一つにまとまりませんので、おさしづを伺いますと、引用文のような意味のご指示があります。
公刊されているおさしづには、この日(陰暦正月二十八日)のおさしづは載せられておらず、引用文は橋本清の『天理教来歴記事』を典拠としていて、「何処へすてゝもよい」は原文では「埋葬ノ地ノ如キハ何処ニテモ苦シカラズト」となっています。これを「何処へすてゝもよい」という表現にするのはちょっと峻厳で、無礼であるように思われますが、結局このおさしづによって、「御遺骸は頭光寺の中山家の墓地にお埋めするのだ、お捨てするのだと云う事に決定」(前掲書七三頁)ということになります。
『天理教史参考年表』には墓地は勾田村善福寺となっていますが、明治二十五年十二月十三日に現在の豊田山の新墓地に御遺骸が改葬されることになります。
そして御葬儀は二月二十三日(陰暦二月一日)執行されます。その間のことについては「廿六日教祖御帰幽より二月一日葬祭の当日迄六日間遺骸を棺に容れ蓋を放ち置きたるに毫末も臭気なきのみか、御面色は生時に於けるが如く、笑を帯び安眠せらる有様なりし」(「教祖御帰幽の時の御模様」『ひとことはなし その二』七五頁)と記されています。
このおさしづのポイントは、教祖は現身をかくされても、御魂はぢばに留まって、よろづたすけをされている、つまり存命ということで、このことは五年祭の当日御墓参り致しましたもので御座いますや伺のおさしづ、「何もこれ古き処、古きものを脱ぎ捨てたるだけのものや。どうしてくれ、こうしてくれる事も要らん。存命中の心は何処へも移らんさかい、存命中で治まりて居るわい。」(M24.2.22)においても明示されています。教祖の場合御遺骸、墓地は「何の理もない」といわれていますが、これは何の価値も無いということではなく、それらに執着せず、もっと大切な存命に目をむけなければならないことを教えられているわけです。
ところでこの存命は教祖が現身をもたれているときにも使われますので、その意味は決して自明のことではありません。
にんけんをはじめたしたるこのをやハ そんめゑでいるこれがまことや(八、37)
このお歌の意味は『おふでさき注釈』では「元無い人間無い世界をこしらえた親は、今現に教祖として生きて現れている。これが確かな事実である。註 本歌は、親神様が教祖様をやしろとして直き直きお現れ下さっている事を仰せ下されている」と説明されています。教祖は「月日のやしろ」としてこの世にお現れ下さっていることが存命である、としますと「やしろ」とは教祖の御身体ということになるのでしょうか。「月日のやしろ」を平たく表現しますと、生き神様になると思いますが、教祖はどのような意味で神様であられたのでしょうか。
荒川善廣氏は次のように説明しています。『教祖の魂は、永遠の次元においては、親神があらゆる可能性をはらんでいる場所として機能し、また「はらむ」という働き自体が見いだされた場所としても機能しているが、現実の次元においては、親神がすべての現実存在を総合統一する場所として機能している。現実の世界、すなわちこの宇宙は、現実存在の集合体として成り立っているのであるから、すべての現実存在が総合統一される場所としての教祖の魂は、全宇宙的な広がりをもっているといえる』(『「元の理」の探究』百三頁)
荒川氏は「やしろ」とは教祖の魂で、身体は「やしろの扉」に相当すると考え、存命はあくまでも魂においてで、この世が滅びない限り、教祖は「月日のやしろ」であり続ける、とみなされています。ということは教祖は現身をかくされても、もたれていても、この意味での存命で、「存命の理」としての時空をこえるお働きを示されつづけておられるといえるのではないでしょうか。
山本利雄氏は教祖存命について、次のように説明しています。
「教祖の魂は明治二十年以後も教祖殿に存命であるという、単なる魂の連続性のみに焦点があるのでは決してないのです。をやは教祖に存命であります。をやが教祖に存命の姿、それこそ教祖五十年のひながたの姿なのであります。だから私たち一人ひとりが、教祖のひながたの道を自分を捨て切って歩む時、をやは私たち個個一一に存命であり、教祖もまた私たち個個一一に存命なのであります」(『あらきとうりょう』第九九号、二九頁)
この存命解釈では「月日のやしろ」としての教祖が見失われ、ひながたを実践する私たちと教祖が原理的に同列になってしまうように思われます。山本氏は月日(をや、教祖)が私たちの体内に入り込むことが存命と理解しているようですが、これはとんでもない誤解であり、「存命の理」、存命の意味を歪めてしまうことになります。
このように見てきますと、存命、「存命の理」は現在の私たちにとっても理解が難しいもので、存命の教祖は私たちがその意味を問い直すことによって、少しでも早く真のたすけ一条の心になることを求められているのではないでしょうか。
にんけんハあざないものであるからに
月日する事しりたものなし (十二,23)
このお歌は教祖が今も「月日のやしろ」であり存命であられることが分らない、分ろうとしないことを教えられているのかもしれません。
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