教祖を身近に 連載 第十二回 「教祖の御住居」
「既に母屋は無く、古い粗末な八畳と六畳の二間が、教祖のお住居であり、その八畳の間に、目標として御幣を祀って、人々の寄り集まる部屋ともなって居た。毎月の二十六日には、室内に入り切れず、庭まで溢れる景況であったので、早く詣り所を普請さして頂かねば、という声が、人々の間に漸く起り始めた。」(『教祖伝』四八、四九頁)
今回は教祖のひながた五十年間の御住居について、学ばせて頂きます。
教祖は天保九年十月二十六日、月日のやしろとなられてから、「貧におちきれ」との親神の思召に従われ、嫁入りの時の荷物をはじめ食物、着物、金銭にいたるまで人々に施されます。三つの倉は空になり、家財道具も一切なくなり、立教から十六年目の嘉永六年に母屋まで解体され、売られてしまいます。中山家の没落が決定的となりますが、この解体は部分的には立教から何年かたった時から始まります。親神から「刻限話」で「この家形取り払え」(母屋の解体)との指示があり、つづいて「巽の角の瓦下ろしかけ」、「艮の角より、瓦下ろせ」、「家の高塀を取り払え」と仰せられ、教祖の身上を台にしてその実行を強要されます。瓦下ろしは「三枚でもはづせば、こぼちぞめや」(『正文遺韻抄』五二頁)といわれますので、部分的に行われたと思われますが、巽(南東)には玄関、艮(北東)には炊事場があって、雨の日には雨もりが、又高塀(大和棟造りとも呼ばれる屋根の形式で大和棟の切妻の端の大壁で、その家の格式を表す)を取り払うと、座敷内に雨風が入ってきて、日常生活ができなくなります。従って嘉永六年より十年ほど前から母屋としての機能をはたしていない所に教祖は居られたわけです。この母屋の取りこぼちの時に、教祖は「これから、世界のふしんに掛る。祝うて下され」と仰せられますが、この意味は具体的には母屋の座敷のとなりの北西の部屋の下に、ぢばがあり、母屋がある限り、かんろだいを囲んでのかぐらづとめができないことを意味しますが、それがわかるようになるのは、それから二十三年後の明治八年ぢば定め以後のこととなります。
では教祖は母屋がなくなってから、どこに居られたのでしょう。教祖はお屋敷の北側の裏門を入った所に本宅、隠居(ここに住われたという見方もある)とよばれる八畳二間位の広さのかまど、トイレ付の建物が残っていたにもかかわらず、約半年間土蔵で生活され、それからお屋敷中央の東側にある納屋に移られます。誠に見すぼらしい建物で元治元年一月奥さんの身上を救けられて入信した山中忠七さんは初めてお屋敷に参詣し、教祖のお住居を目にした時の状況を次のように伝えています。「当時の教祖の御住居はわずか六畳と八畳の家で、その屋根といえば、わら葺きのもう腐った屋根で、雨露は漏ってくるような有様でありました。また屋内も真黒にくすぼり、畳や障子も荒れ果てていて、実にお気の毒な有様であったということであります。神様も、ただ押入れのような床の間に八足を二つ並べて、その上にささやかな御幣が立てかけてあったのでありました。まことに教祖の御住居は粗末と言うより、むしろ朽ち果てた所で、御一家はその中で日々の食物にも事欠いてお過しなされていたのであります」(『山中忠七伝』)
教祖はここで約十二年間「どん底のどん底」の生活、「三十年来寒ぶい晩にあたるものも無かった。あちらの枝を折りくべ、こちらの葉を取り寄せ、通り越して来た」(M29.3.31)道中ですが、その中を「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と言われ、陽気ぐらしのひながたをお示し下さっておられます。暖衣飽食に慣れきってしまった私たちにとっては、絶対に忘れてはならないひながたであります。
次につとめ場所ですが、元治元年十月二十六日に上棟式、翌日大和神社事件による中断がありましたが、翌年完成し、「上段の間の神床に親神を祀り、教祖は、同じ間の西よりに壇を置いて、終日、東向いて端座され、寄り来る人々に、諄々と親心の程を伝えられ」(『教祖伝』六二頁)、夜もその場所でお休みになられたようであります。『正文遺韻抄』に次のように記されています。「慶応元年に一間四方と仰せられたる御普請ができあがりまして、それから御教祖様は、六畳の上段のまんなかへ、二枚折をしきりにおいて、東三畳は神前でありますから、西三畳を御座所と定めて、きうくつな処も窮屈と思召さず、わずか三畳敷に起臥して被下ました。」(五五頁)
つとめ場所に約十年住まわれた後、明治八年夏、門屋の内造りとこかん様の身上、出直が立て合い、その年の暮から中南の門屋の西の十畳を御住居とされ、日夜寄り来る人々に親神の思召を伝えられます。『教祖伝逸話篇』一二三「人がめどか」には、梅谷さんが心ない人の陰口から深夜大阪へもどろうとしたときに、ここに居られた教祖の咳払いで思いとどまり、信仰を続けられたことが記されています。その時梅谷さんは御休息所の左官のひのきしんをされていますが、この御休息所に明治十六年十一月二十五日教祖は移られます。つとめ場所の北側に廊下でつながった四畳八畳の二間で、教祖は一段高くなっている四畳の間でご起居され、ここで明治二十年陰暦一月二十六日現身をかくされたのであります。
このように見てきますと教祖が雨露をしのいでお通りになられたのは、立教から約三十年たってからで、それまで雨もり、すき間風の入ってくる御住居で通られたわけです。「道の上の土台据えたる事わからんか。長い間の艱難の道を忘れて了うようではならん」(M34.2.4)「長い間の艱難の道」をたすけの台として存命の教祖、親神によって救けて頂けるのではないでしょうか。「古い粗末な八畳と六畳の二間」での御生活を私たちは片時も忘れることなく、人救けにいそしむことが焦眉の課題ではないでしょうか。
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