2011年10月11日火曜日

No.27 教祖を身近に 連載 第27回 霊魂の問題(2) 

                       教祖を身近にNo.27
                  霊魂の問題(2)
このよふにかまいつきものばけものも かならすあるとさらにをもうな(十四、16)
「憑きもの化けもの、心の理が化けるで。(中略)憑きもの化けもの一つ心理を障る神は無い。心の理後へ~~戻る」(M25,4,19)  

人間の魂は出直してから生まれかわってくるまで神に抱かれていますが、その間に悪霊や怨霊、化け物、死霊となって生きている人々を苦しめたりすることはないと明確に教えられています。「心の理が化ける」ということは一見憑き物、化け物の実在が肯定されているように思えますが、それらはあくまでも「心の理」つまりいんねんが外化、自己疎外されたもので、いんねんのある当人にとってしか存在しないもの(例えば殺人者に被害者の幽霊がでるというような)と考えられます。

松本滋氏は『神へ近づく道』の中で、次のように説明しています。
 人間は出直すと「新しい着物」を着て、「あの世」、霊的次元の世界に行き、それまでとは全く異なった新しい生き方の次元に入る。「あの世」には様々の次元があり、魂のレベルの等しい者同志が集まる。美しい魂の人は、善良な魂に囲まれ、強欲の魂の人は同じ魂の人々を呼ぶとみなされていますが、人間の魂の場合、身体がない限り心が生じない、従って当然会話もできないのであれば、「あの世」での新しい生き方というのは、具体的に何を意味し、救済とどのようにつながるのでしょうか。
松本氏はさらに人間は親なる神の「分身」、そういう意味での「神の子」と考えていますが、「分身」を神の「分け霊」としますとすこし問題があるように思われます。
 
昭和五年版の『天理教綱要』に次のように記されています。「人間の身上が借物であるならば、借主は誰かといふに、人間の霊であります。霊とは神の分け霊であって、人間が霊に生き、霊によって身上を使うならば、身は自由用の理をいただくのであります」
 この「分け霊」説は、神道における神人関係を連想させ、神人の連続性が強調され、様々な誤解が生じてきます。
 
「分け霊」説の根拠は、親神がどろ海中のどぢよを皆食べてこれを人間の「たね」とされた、親神に食べられ同化されたから、神人は同質で連続しているということですが、このどぢよも親神によって人間創造に先立って創造されているわけですから、神人関係には断絶、非連続性があると考えられます。神に近づくという考え方は誤解を受けやすく、あくまで神の思いに近づくと考えなければならないと思われます。

 増野鼓雪氏は「人間は神様の子だから神様にならねばならん」、「神様から啓示を受け、黙示を受けて進んで行くと、神秘の世界にはいることができる」、「人間と神が合一する事によって、神秘の世界にはいることができる」(『増野鼓雪選集』第三巻)と述べ、神秘主義的神人合一を説いています。
 教祖五十年祭(昭和十一年)頃までは霊救という言葉がおたすけに使われていたようです。用木のたすけ一条の精神を高揚させるために、その時代の影響を受けて、必要であったかもしれませんが、神人合一の視点からの霊救となると本来の教え、神人和楽、「神が連れて通る陽気」(M30,12,11)から少しそれるように思われます。
 
また心と魂、霊と魂を分けて、心の埃をとりのぞくことによって、神的本来性をもつ魂が働き出して、何事でも思っただけで、それが時空をこえて現実化するという思いの自由自在がかなう、神に等しき働きができるようになるという見方や、霊とは外から神秘的な力を発揮し、魂は人間存在を内から支えて神秘的な力を発する。魂は霊のように空間的ではなく、時間的な次元で永遠の次元にまで及んでいく普遍性をもっている。祖霊殿にまつっているのは魂ではなく霊であるので、魂の次元の信仰、全人類を射程に入れた信仰に立脚すべきであるというような見方もありますが、心と魂、霊と魂を分けて考える二元論的見方は、人間の身体を無視して人間を問題にするようなもので、非現実的で一面的なものになってしまうと思われます。
 
心と身体と全く無関係で、それから独立した霊や魂そのものは考えられず、もしあったとしても、神によって抱きしめられている、つまり時空をこえた非活性状態のもの、具体的な働きのないものではないでしょうか。
 では本教では「みたま」、祖霊殿はどのような意味をもつのでしょうか。
 
最近スピリチュアルブームが続いています。「オーラの泉」や「天国からの手紙」といった人気テレビ番組を通じて、スピリチュアルカウンセラーと称する人が、前世と守護霊をキーワードにして生き方を示し、現世利益を求める若者を引き付けています。前世については根拠もなく中世の貴族の生まれかわり等と教え、うさんくささが感じられ、信憑性がないと思われますが、守護霊については、本教の「みたま」、祖霊と同じように考えることができるでしょうか。「みたま」のおかげとよく聞きますが、守護霊という意味ではないと思います。
 
おさづけの取次ぎのときに、親神、教祖にご守護をお願いしても、祖霊様にはお願いをしません。ということはおさづけのご守護に祖霊様は関与していないということ、つまり祖霊は守護霊ではないと考えられます。では祖霊様の働きというのはないのでしょうか。
 祖霊殿は出直した人の魂が生まれかわってくるまでの休息所という見方がありますが、魂がすべて生まれかわっていれば、もぬけの殻になってしまいます。

 諸井慶一郎氏は次のように説明しています。「祖霊殿の霊舎に祖霊がおわすのではもとよりないし、祭文で霊の加護を願うようなことを奏上しても、働く霊の存在を信じているのではなく、先祖先人の遺徳を讃え,遺徳に守られることを報謝祈念する意味であります」(『天理教教理大要』四一六頁)
 ということは祖霊様の働きというのはなく、祖霊様の遺徳を台にして親神、教祖が実質的に働かれるということになります。つまり祖霊様のおかげということによって、間接的に親神、教祖に御礼をすることになると考えられます。

 作家で僧侶の玄侑宗久氏は「日本人はお地蔵様、観音様、薬師様などが、本当はいないということを知っているにもかかわらず、ひとつのシンボルとして拝んでいる。こういう文化のあり方、ゆとりのある見方が必要です」(『週刊文春』平成十九年二月十五日号)と述べています。祖霊様を実在する霊としてではなく、人格化されたシンボルとして考え、私たち子孫を見守って下さっていると受け取る、これが本教の祖霊観ではないでしょうか。

 最後にスピリチュアルブームの問題点に触れておきます。宗教学者の島薗進氏は、いじめを受けた子供の自殺が相次ぐ中、若者の多くが死んでも生き返ることができると思っているというアンケート結果に危惧を示し、「命をリセットできるゲームが普及するなど、命の重さを勘違いする世界となった。元々、日本人には死を美化する武士の文化、心中の文化があり、それが悪い形で現代のスピリチュアリテイに入ってきている」と警鐘を鳴らしています。
  作者不詳の「千の風になって」(「私のお墓の前で泣かないで下さい、そこに私はいません、眠ってなんかいません、千の風になって、あの大きな空を吹き渡っています」)が歌われ、反響を呼び、多くの人に感動を与えています。死者が風や星や鳥に姿をかえ、生者にメッセージを送るという発想は、あらゆる存在に霊魂が宿ると考えるアニミズムの現代版ですが、生命がスピリチュアル化するということによって、かえって生命が軽く扱われるという危険性をはらんでいるように思われます。スピリチュアルブームが教えることは、かけがえのない生命の重み、生かされているという厳粛な事実を今一度見直すことではないでしょうか。 

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