2011年10月12日水曜日

No.35 教祖を身近に 連載 第35回  小さな埃は

小さな埃は

「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放って置くやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。」(『逸話篇』一三〇)
 このお言葉は教祖が高井直吉さんに対して諭されたものですが、この逸話から人だすけ、救済における大切なポイントをいくつか学ばせて頂くことができます。
 
まず第一点は、人間というものは生きている限り埃と無縁ではありえないということです。「新建ちの家」とはまだ人の住んでいない家で、このような家にも埃がつもるということは、人間が何もせず、じっとしていても心に雑念が去来してくる、人の住んでいる古い家ともなると、つまり人間が一日中忙しく行動していると、どれだけ多くの埃をつむかわからないということ、また「新建ちの家」は埃のない家ですから、それを聖人君子、悟りを開いた人、解脱した人と考えますと、そういう人でも埃とは無縁ではないことを教えられているように思われます。また「目張り」は外から埃が入らないようにするためのものですから、「目張り」をするということは、人間の心を誘惑する物、財産、名誉、地位等から離れること、つまり出家して俗世間との接触を一切たつことが意味されていると考えますと、「目張り」なしで生活をする、社会において人、物にとりかこまれて生活すると、どれほど多くの埃をつむかわからないということを教えられているのではないでしょうか。
 
このことは教祖の次のようなお言葉からも理解されます。「わしでもなあ、かうして、べつまへだてゝ居れば、ほこりはつかせんで。けれども、一寸台所へ出ると、やっぱり埃がついてなあ」(『正文遺韻抄』一五二頁)ということは教祖は私たちに、これまでの教えのように、罪を犯さない、執着心をもたない、つまり埃をつまないというような消極的な道ではなく、もっと積極的な人だすけの実践を通して埃を払う、掃除をする道を教えられたと思われます。

 従来の教え、例えばキリスト教の新約聖書の山上の垂訓に見られます「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである」(マタイ四章二八)という教えは、「汝姦淫するなかれ」というモーゼの十戒の一つの戒律を不要にするほど、私たちに厳しい自省をせまりますが、このような単に埃をつまないことを求める教えは、「小さな埃は」に示されますように、いかに努力をしても、人間は埃をつみますので、結局はパウロの「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ロマ書七章十九)という嘆息、人生への絶望へと私たちを導かざるをえないように思われます。
 
仏教では、心の汚れ、煩悩から業(行為)がひきおこされ、生老病死の四苦、愛別離苦、怨憎会苦(いやな人に出会う苦しみ)求不得苦(望むものを得られない苦しみ)五陰盛苦(心身全体の苦しみ)の四苦を加えた八苦が生じると教えられますが、出家して深山幽谷に入り修行しましても、我が身、我が心から離れることが出来ないかぎり埃をつまないことはほとんど不可能で、業は宿業へとかわり、宿命論となって、救済はこの世においては不可能で、あの世、彼岸でしか成就されないということになります。
 
結局教祖は、人間はいかに努力しても埃とは無縁ではありませんので、「小さな埃は」によって、私たちが現在つみつつある埃、これまでつんできた前生からの埃にとらわれ、その前に立ち尽くし、絶望するのではなく、埃を日々どれだけ払っているか、またたすけ一条の心定めによってこれから払おうとしているかが大切であることを教えられたと思われます。 

 第二点は、おたすけでのお諭しに関してです。高井直吉さんはおたすけに行かれて、身上患いについてのお諭しに困られ、教祖にお伺いされた時に、教祖がお話しされたのが「小さな埃は」であったわけです。
 
これまで、いや現在でも間違ってされやすいのが、身上患いについての次のような諭しです。例えばガンを患う人は頑固で、周りの人と合わせる心がない、肺病の人は素直にハイと言えず高慢である、というように、00病は00の悪い、間違った心遣いをしているからとか、00の因縁である(因縁であるというだけでは、そうなるのは必然的、当たり前といっているにすぎず、何の諭しになっていません)というような諭しですが、教祖はそのようなお諭しは一度もされていません。それはお諭しが不必要だからではなく、埃についてお諭しをするときは、ある特定の埃を相手にいうのではなく、人間というものは知らないうちに埃をつんでしまうので、埃を日々つまないように、というような埃一般に関する話をして、その人の埃については、その人にこれまでの通り方から反省してもらう、さんげしてもらうことによって、真のおたすけができるからではないでしょうか。

 特定の埃を相手に直接いうことは、相手を責めることになり、かえっていずませてしまうことになると思われます。間違った諭しをしても、御守護いただける時もありますが、それは御恩報じの行ないや人救けによってであって、諭しそのものによるわけでは決してありません。この点に注意をしないと、「黒いカラスは白い」と言われても、親の声を聞け、というような誤った仕込みがはびこることになると思われます。諭しをする人は、日々心を澄み切らせる努力をし、相手の人に勇んでもらえるような諭しができるようになることが求められているのではないでしょうか。
 
第三点は、おたすけ人の真実に関してです。高井さんはお屋敷から三里離れた所におたすけに行かれ、お諭しに行き詰まって一度お屋敷にもどられ、教祖にお伺いして、再びおたすけに行かれています。つまりおたすけのためにお屋敷と相手の家を二往復、約四五キロ歩かれ、丸一日を費やしておられます。このなんとか相手の人にたすかってもらいたい、そのためにはどんな苦労もいとわないという真実に、親神が働いて、相手が「よくわかりました。悪い事言って済まなんだ」と詫びを入れて信心するようになり、身上の御守護を頂かれたと悟らせて頂きます。
 
このように考えますと「小さな埃は」の逸話は、おたすけ人も埃の多い人間であることを常々反省させるとともに、諭しによって相手を責めることなく、勇ませ、真実をつくすことによって真のおたすけができることを教える逸話でもあると受け取ることができると思われます。

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