かんろだい
『その石は、九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門まで来た時に、動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖が、お居間からお出ましになって、「ヨイショ」と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーッと入ってしまった。一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に、心から感激した、という。』(『逸話篇』八十二)
これは明治十四年かんろだいの石出しが行われたときの逸話で、その年に二段までできた石造りのかんろだいは翌年五月十二日官憲によって、没収されることになります。かんろだいの変遷について、まずみてみましょう。
「めつらしいこのよはじめのかんろたい これがにほんのをさまりとなる」(二、39)おふでさき第二号は明治二年に書かれますが、ここにはじめて「かんろだい」の文字が見られます。明治二年にはまだ製作されていませんし、据えるべき場所である「ぢば」も明らかにされていません。しかしこの時点で、否もっと以前からすでに「かんろだい」を芯とする世界だすけのためのつとめの具体的な構想があったわけです。
明治六年教祖は本席さんに、ひな型かんろだい(寸法、形はNo.27「ぢば定め」で既述)の製作を命じられ、明治八年こかん様身上お願いづとめに当たり、はじめて「ぢば」に据えられ、明治十四年頃まで礼拝の目標(めど)とされます。しかし「ぢば」に単に竹柵を立ててあったという説もあり、確認する資料は発見されていないようです。(『ひとことはなし』その二)
明治十五年、前年秋に二段まで完成した石造りのかんろだいは、五月十二日、官憲により没収されますが、この節は「子供である一列人間の心の成人が、余りにも鈍く、その胸に、余りにもほこりが積もって居るから」(『教祖伝』二三八頁)で、起こるべくして起こった節と考えられています。(この節の意味については、No.7に説明しています。)
明治十五年かんろだい没収以後、直径三,四寸の票石が、高さ一尺位積み重ねられ、「人々は綺麗に洗い浄めた小石をもってきては、積んである石の一つを頂いて戻り、痛む所、悩む所をさすって、数々の珍しい守護を頂いた。」(『教祖伝』二三九頁)といわれています。
その後、明治二十一年以後板張りの台が二重に重ねられ、かんろだいの代わりとして使われていたようです。
そして教祖五十年祭(昭和十一年)、立教百年祭(同十二年)の両年祭を目指して造営された、昭和普請の建設と共に、親神様の目標(めど)たる社が撤去され、真座を設け、教祖のお教え通りの寸法の木造かんろだいがはじめて「ぢば」に据えられ、その標識となります。木造のゆえに、ひな型かんろだいと称せられています。
では、このかんろだいは一体何を意味するのでしょうか。
かんろだいは「ぢば」の標識であるとともに、かんろ(甘露)を受ける台とも言われています。また『教典』には「人間宿し込みの元なるぢばに、その証拠としてすえる台で、人間の創造と、その成人の理とを現して形造り、人間世界の本元と、その窮りない発展とを意味する。」(十七頁)と説明されています。またかんろだいは「どこにもない、一つのもの、ところ地所どこへもうごかす事はできないで」(M24.2.20)といわれ、「ぢば」をはなれては理のないものと教えられています。おふでさきでは「にほんのをさまりとなる」(二、39)「にほんの一のたから」(十七、3)「にほんのをや」(十、22)「にいほんのしんのはしら」(八、85)等と説かれています。
かんろだいの寸法の数字については、正六角形の六は「六台初まりの理」、「身の内六台の理」,三は三日三夜の宿し込みの理、三年三月留まりた理、八は八方の神様のお働きの理、一尺二寸(十二寸)は、をもたりのみこと様の頭十二の理で、十二は一年が十二ヶ月、一日が十二刻であるように、全体的な秩序、完全性を表わす聖数とされています。
十三については「十分身につく」(『逸話篇』一七三)、十二で完全な姿の上に十三段目が置かれることによって、生命の新しい誕生が、十三という数に含意されているという解釈もあります。
かんろだいは十三段高さ八尺二寸の台で各台に径三寸深さ五分のほぞが、上から下へはまるようになっていますが、その各段のそれぞれの意味については、諸井慶一郎氏は『天理教教理大要』のなかで、次のような悟りを紹介しています。
まず最下段(正六角形、径三尺、厚さ八寸)は元初まりに親神様が御苦労下された、その伏せ込みの理、第二段(同形、径二尺四寸、厚さ八寸)は教祖が立教以来、道のために御苦労下された伏せ込みの理、最上段(同形、径二尺四寸、厚さ六寸)は存命の教祖のお徳の理、三~十二段の十段(同形、径一尺二寸、厚さ六寸)は道の子の理で、日々月々年々のつくし、はこびの伏せ込みの理、十段六尺は、五体満足な人間に徳がついて、心の内造りのできた、ろっくの人間に成人した徳の姿、道の子が親神様、教祖の御苦労の伏せ込みをうけて、道につくしはこぶこうのうの理、つまり徳の姿で、十分その徳を積み重ねる理と解されています。
また最下段、第二段、最上段の台(教祖が現身をかくされた時点)は石造りの台としては理の上からはすでに出来上がっている、三段から十二段は積み立てるもので、明治十四年の時点では、まだ伏せ込みの理がなかったから、最下段と第二段の二段までしか出来ていなかったと考えられています。また真柱様の一代は、道の子の伏せ込みの一代、一台とも解されています。
このように考えますと、かんろだいとは救済のシンボルともいえるもので、親神様の昔も今も永遠に変わらない十全の守護、教祖の五十年の伏せ込み、存命の守護に、私たちの先達の伏せ込み、私たちのこれからの伏せ込みによって救済(ふしぎだすけにとどまらない、究極の病まず弱らず不死のめづらしいたすけ)に浴すことができることを教える台であるといえるでしょう。
「このたいがみなそろいさいしたならば どんな事をがかなハんでなし」(十七、10)この台をかこんでつとめられるかぐらづとめ、その理をうけてつとめられる教会でのおつとめによって、どんな事でもかなえられる、と確約されているわけです。
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