2011年10月12日水曜日

No.34 教祖を身近に 連載 第34回  もっと結構 

もっと結構
「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」(『逸話篇』三九)
「さあ~~、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで。」(『逸話篇』二十一)
 
前のお言葉は自宅に入った泥棒を偶然見つけ、盗難を免れた西浦弥平さんが御礼を申し上げたときに、教祖が仰せられたものです。この意味については常識を超えていますので理解がむつかしく、様々な解釈がこれまでになされています。

「難儀にあわずにすんだことだけを喜んでいるようでは、まだ信仰の入り口にも達していないので、たんのうはまだできていない」という見方や「これは本当の御守護とは何かという、常識的判断をこえた次元のものの捉え方、悟り方で、個人のたすかりではなく、人間全体のたすかりを視野にいれた考え方であり、人類全体のたすかりとは、全体意識である宇宙意識に根ざしたものである」という極論もあります。前者については難儀にあうことがなぜ結構なのか、説明できていませんし、後者では盗難も正当化され、救済が宇宙意識とどのように結びつくのかわからず、論理の飛躍があるように思われます。
 
山本利雄氏は『いのち』の中でつぎのような解釈をしています。長くなりますが引用しておきます。「この考え方は、在来の道徳的な善悪の評価を言っているのでは断じてない。泥棒に取られなかったと喜んではいけない。それは悪である。ほしい人にもっていってもらうことこそ善である、などと言っているのでは決してない。泥棒に取られずに済めば、誠に結構である。素直に喜ばしていただく。泥棒にもっていってもらえば、もっと結構である。これも素直に喜ばしてもらう。一切が結構づくめである。いかなる中でも陽気ぐらしができるように創られている。ここに、創造の意志、陽気ぐらしの原点がある。ここに、先に述べた、たんのうの世界がある。」(五二〇頁)これでは「もっと結構」の意味が全くわからず、何の説明もしていないことになります。
 
問題は盗難にあうことがなぜ結構なのか、ということですが、これは盗人を喜ばせたからでは決してありません。盗みは欲のほこりを積む行為で、許されるものでは断じてありません。

『正文遺韻抄』に次のような「盗賊の入りたる咄」というお諭しが載せられています。
「凡そ世の中に、好んで人の物を盗るものはあるまい。貧しさのあまり、心をわかして盗むのであろう。気の毒のものや、まず盗る者の身にくらぶれば、盗らるるものは、あるからとらるるので、喜ばねばならん。まして人間は、前生に如何なる借りがこしらえてあるやら、また前生で如何なる事がしてあるやらわからねば、今前生でかりた物をかやすとおもへば、なにもくよ~~思ふことはない、また天道(神)は見どしてあるときけば、もし之(これ)が返したのでなく、この人に貸したのであるなら、いつしかかへってくるときがあるに違いない」(二九頁)
 
教祖のこのお諭しの中に三つのポイントが示されています。まず盗まれるのは、物があるからで、それを喜ぶこと、次に盗難にあうことは前生の因縁から考えると、前生での借りを返すことになり、これによって前生において積み重ねてきた天借の返済ができること、第三点は前生の借りがないときには、盗人に貸したことになり、将来返してもらえる、このように盗難の節をうけとるとき、初めて教祖のお言葉の意味がよくわかるのではないでしょうか。教祖は盗人に慈悲の心を抱かれるとともに、節を見せられる当人にたいして自らへのさんげ、前生因縁をさとり、反省することによって、たすけ一条の心になり、本当の意味でのたんのう、陽気ぐらしができるようになることを「もっと結構」と仰せられたと思われます。
 
次に『逸話篇』二十一の「結構」について考えてみましょう。
 教祖は山中忠七さんの持山が大雨のため崩れ、田地が土砂に埋まるという大節に対して「海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで」と言われています。一見しますと「後は結構」とのお言葉から、後になると結構になるが、今は結構でない、とうけとれますが、はたしてそうでしょうか。もしそうなら「たんのうせよ」というお言葉は、単なる忍耐、我慢ということになってしまうでしょう。おさしづに堪忍(たえしのぶ)という言葉があり、積極的な意味を持っています。

「堪忍というは誠一つの理、天の理と諭し置く。堪忍という理を定めるなら、広く大きい理である。」「心に堪忍戴いて通れば晴天同様、一つの道と諭し置こう。」(M26.7.12)堪忍は強い意志を必要としますが、たんのうの前段階にすぎないと思われます。

『教典』に「いかなる身上のさわりも事情のもつれも、親神がほおきとなって、銘々の胸を掃除される篤い親心のあらわれ」(六九頁)と明示されていますが、ここから考えますと、山中さんの大節そのものが、心のほこりを払う「親心のあらわれ」であり、それゆえに結構である、と悟れるのではないでしょうか。節によってほこりが払われ、後々さらに結構になっていく、と教えられているように思われます。「海のドン底まで流れて届いた」ものは、土砂、大木のみならず、それについていた心のほこりでもあると思われます。

 盗難の節についても、物を盗まれることによってなくなるのは、物そのものとそれについている心のほこりでもあることを「前生でかりた物をかえす」というお言葉は意味していると悟れます。前生に「借りがこしらへてある」とは、天借を積み重ねてある、つまり心のほこりが多くある、と考えますと、「借りを返す」ことは、心のほこりを払うことと考えられるからです。
 
このように考えますと、盗人は相手の心のほこりを払う、たすけをしているように思えますが、そうではなく盗人は相手の心のほこりを逆に自分の方へひきよせ、そのほこりをつんでしまうことになります。つまり盗難のような節においては、ほこりが払われるといっても、ほこりが右から左へ移動するだけで、ほこりそのものが消えてしまうわけではないと思われます。

 ほこりの掃除はたすけ一条の道であります、つとめとさづけによってしか払いきることはできませんが、親神は私たちを掃除の道具として使われ、世界一列の心の掃除にかかられています。「さあ掃除や。箒が要るで。沢山要るで。使うてみて使い良いは、いつまでも使うで。使うてみて、使い勝手の悪いのは、一度切りやで。隅から隅まですっきり掃除や。」(M20.3.15)「残らず道具、良い道具ばかりでも働き出来ん。良い道具、悪しき道具合わせて出ける。日々の働きから分りて来る。よう聞き分け。」(M34.6.14)「使い良い」「良い道具」とは、教祖の道具衆としてたすけ一条にいそしむ用木で、「悪しき道具」とは相手のほこりは払うが、そのほこりを自らつんでしまう、相手を苦しめ、困らせる人間のことと悟りますと、私たちが「良い道具」になることをめざすだけではなく、親神にとって「悪しき道具」を自分にとっては、ほこりを払ってくれる「良き道具」としてうけとることを「もっと結構」の逸話は教えているのではないでしょうか。

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