2011年10月13日木曜日

No.41 教祖を身近に 連載 第41回  ようし、ようし 

ようし、ようし

『ある時,飯降よしゑが、「ちょとはなし、と、よろづよの終りに、何んで、ようし、ようしと言うのですか。」と伺うと、教祖は、「ちょとはなし、と、よろづよの仕舞に、ようし、ようしと言うが、これはどうでも言わなならん。ようし、ようしに、悪い事はないやろ。」と、お聞かせ下された。』(『逸話篇』一〇九)
 
教祖は、みかぐらうた第二節と第四節の終わりに「ようし、ようし」と付け加える(第二節は月次祭の時で朝夕のつとめではつけない)理由を「ようし、ようしに、悪い事はない」からと説明されています。また「どうでも言わなならん」と強調されていますが、なぜでしょうか。まずみかぐらうたの成立の背景、順序をみてみましょう。
 
まず第一節「あしきはらひたすけたまへ てんりわうのみこと」は慶応二年秋、小泉村(現大和郡山市)の不動院の修験者がお屋敷にやってきて乱暴狼藉を働いた直後に教えられています。この事件の様子は次のように記されています。
「どこからきたう(祈祷)のゆるしをうけたか、といふて質問致しまして、夫から御教祖様へせまって、悪口雑言を盡したさうでござりますが、御教祖様は、かやうなものには、更におあいてなりませず、口をとぢておいで遊ばすものですから、益々たけりくるって、刀をぬいてくすぎ(突き刺し)遂には、御教祖様のまのあたりへさしつけて、おどしました。それでも御教祖様は、一歩もおしりぞきにならず、びくともせず、口をむすび、まなこをとぢて、ゑみをふくんで、泰然と遊ばしてござるものですから、更におどかしのかひもなく、ぬいた刀のやりばがございませんから、尚も悪口雑言をはいて、たけりくるって、障子をさき、太鼓をきり、提灯をうち払って、さんざんあばれて出てゆきましたさうでござります」(『正文遺韻抄』六二頁)
 
またこの事件のあと、「ほこりはよけて通れよ、ほこりにさからうたら、自分も又ほこりをかぶらにゃならん程に、けっしてほこりにさからふやないで」、「しんじつもつてこの道つとめるなら、いかなる処も、こはきあぶなきはない。神がつれて通るほどに、決しておめも、おそれもするのやないで」(同
六三頁)とお仕込み下さっています。
 
この第一節は一見この事件が原因となって作製されたように思えますが、事件はあくまでもきっかけであり、第一節はつとめ場所が前年に完成していますので、事件に関係なく成立する必然性があったと思われます。
 また立教から二十九年目にして、第一節がようやく教えられます。なぜこんなに長い年数が必要であったのでしょうか。
 
一言でいいますと、神の心がわからない、人間の心の成人の鈍さ故ということですが、具体的には節のこれまでの見方、受け取り方の根強さが考えられます。
 古来否現在においても病気、事情、災難等のいわゆる「あしき」は悪霊、怨霊等が人々にたたったり、憑き物がついていることに起因するという考え方が根強くあります。キリスト教の中には、神と同じ霊的な存在として悪魔(サタン)がいて、神の救いを妨げ、人間に災いをもたらすと教える宗派もあります。また霊のたたりを強調し、信者をおそれさせることによって、信仰を強要する宗教もあります。
 現在においても同じ状況ですから、教祖ご在世当時は今以上に、節の原因を外来のものとする見方が強かったと思われます。
 
教祖はまず「なむ天理王命」と神名をひたすら唱える「唱名のおつとめ」(「当時のおつとめは、ただ拍子木をたたいて繰り返し~~神名を唱えるだけで、未だ手振りもなく、回数の定めもなく、線香を焚いて時間を計って居た」『教祖伝』四五、四六頁)を教えられ、これによって「あしき」の本来の原因である心のほこり(この時点ではまだ教えられていません)を払い、一時的に救けに浴せる手段を講じられます。そして第一節を教えられることになりますが、このお歌の「たすけ」は、まだ「あしき」の真の原因が内なる心であることがわからず、外からのものとうけとり、神名を唱え、神にひたすら祈願することによって与えられるものと考えられます。(明治十五年に「あしきはらひ」が「あしきをはらうて」となりますが、現行の「はらうて」の方は、「あしき」が内なる心に起因との自覚が明確にあります)

 次に第五節(一下り~十二下り)が慶応三年教祖七十才の年、正月から八月にかけて教えられます。この第五節では、一下りが豊作、二下りが健康と平和を中心に具体的な御守護が述べられ、「さんざい心」という信心の芽が、三下り以降、「ひとすぢ心」、「やさしき心」、「ふかい心」さらににをいがけ、たすけ一条の心、ひのきしん、報恩の心へと発展していき、世界のふしんに参画していくという信仰生活の心の成人が詳しく教えられ、求められていると考えられます。
 
続いて第二節と第四節が明治三年に教えられますが、「『よろづよ』は、十二下りのだしと仰せられて、十二下りのはじめに、つとめる事になりました」(『正文遺韻抄』七四頁)のに、なぜ十二下り、第五節の後に教えられたのでしょうか。
 第二、第四節は第一節が人間の神への祈願であるのに対して、「かみのいふこときいてくれ」、「なにかいさいをときゝかす」、「きゝたくばたづねくるならいうてきかす」
からわかりますように、神から人間へのお諭し、願いであり、その内容は「このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな これハこのよのはじめだし」、元のいんねん、「元の理」、生命の起源、根源になっています。
 
この第二、第四節が第一、五節のあとに教えられているということは、第二、四節の内容が第一、五節の根拠になっているということ、第一節のたすけ、第五節で教えられます心の成人の実現のためには、親神の人間へのお諭しが分るようになることが必要ということで、少しでも分るようになることによって、親神から認めて頂ける、これが「ようし、ようし」の意味ではないでしょうか。またこの意味で「どうでも言わなならん」と教えられているように思われます。

 陽気ぐらしを目的に人間が創造され、今も変わらないご守護によってお育て頂き、お連れ通り頂いている、この御恩に報いるために、たすけ一条の心になって、用木として御用させて頂くことによって、明治八年に教えられます第三節のたすけが少しづつ実現していくことになるのではないでしょうか。従って第三節のたすけは、神人協働によってもたらされる本来のたすけであり、この実現を親神は急いでいると考えられます。

 余談になりますが、最後に第三節の「かんろだい」の手振りの意味についての悟りを紹介したいと思います。
 この手振りは、両平手の甲を左右に返して、掌を上向きに小指と小指を軽くつけて平らにそろえ、そのまま、まっすぐに上げる手の動きで、天から授けられる甘露をありがたく頂戴する手振りや、真の陽気づくめの世の中が実現した暁に、「かんろだい」が建ちあがる姿をあらわす手振りのように思われますが、No.38で紹介しましたように、下から三段から十二段目の十段の台を「道の子の理」、「日々月々年々のつくし、はこびの理」(諸井慶一郎著『天理教教理大要』)と解しますと、私たちがその一段一段をたすけ一条の御用、つくし、運び等の伏せ込みによって積み上げていくことを日々忘れずに決意する手振りと悟ることができるのではないでしょうか。「かんろだい」が建ち上がっていくのを、手をこまぬいて待つのではなく、その建ち上げに、たすけ一条の御用を通して自ら参加することを、その手振りによって教えられているように思われます。「どうでもこうでも、かんろだい積み建てる~~」(M31,7,.14)は親神、教祖がそのことを私たちに求められているとも悟れます。

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