2011年10月10日月曜日

No.13 教祖を身近に 連載 第13回 つとめ場所のふしん 

教祖を身近に 連載 第十三回 「つとめ場所のふしん」

「社はいらぬ。小さいものでも建てかけ。」
「一坪四方のもの建てるのやで。一坪四方のもの建家ではない。」「つぎ足しは心次第。」
(『教祖伝』五三、五四頁)
「ふしぎなつとめばしよハ たれにたのみはかけねども」
「みなせかいがよりあうて でけたちきたるがこれふしぎ」       (三下り目、二ツ、三ツ)
 これらのお言葉は、つとめ場所のふしんに関して言われたもので、私たちにとっても大切なことをご教示下さっていると思われます。
  つとめ場所のふしんの経緯は、元治元年本席飯降伊蔵さんが五月に奥さんの流産後の患いを救けられ、六月二十五日夫婦そろってお礼詣りをしたときに、救けられたお礼にお社の献納を申し出られたことから始まります。その申し出に対しては、教祖は月日のやしろであられますので、断られ、かわりに「一坪四方のもの」を建てるよう指示されます。
 
一坪四方とは、一間四方、一坪、二畳のことと思われますが、これは一体何を意味するのでしょうか。「建家ではない」とは人の住む場所ではない、と考えますと、神の鎮まる場所、つまりぢば、かんろだいを意味しているのではないでしょうか。(現在かんろだいは一間四方天窓で、一間四方を花崗岩の延石により四角に区切られ、中に那智黒の美しい黒石が敷きつめられています)教祖は米倉と綿倉をとりのけて、そこに建てるよう指示されますが、その場所のすぐ南側にぢばが明治八年に定められますことを考えますと、その時点で教祖にはかんろだいを囲んでのつとめが想定されていたと思われます。しかし本席さんはじめ他の人々には全くわかりません。「つぎ足しは心次第」とも言われましたので、「居合わせた人々」はお屋敷の建物、特に御幣をおまつりしている教祖の八畳、六畳のお住居の手狭さを考え、小さいながらもお参りの場所を建てよ、との仰せと悟り、三間半に六間、二十一坪のものを建てる心定めをします。そしてさらに本席さんが手間、山中忠七さん費用、辻忠作さん瓦等それぞれ引きうける話合いができます。
 
ここに本教のふしんのあり方、ひのきしんの基本が示されているように思われます。
 さて一般の普請は『広辞苑』では元来仏教語で「禅寺で大衆を集めること。またあまねく大衆に請うて堂塔の建築などの労役に従事してもらうこと」又寄進は「社寺などに金銭物品を寄付すること」と記されています。
  つまり普請は頼まれてするものであるのに対して、本教の「ふしん」は「たれにたのみはかけねども」「みなせかいがよりあうて」と教えられますように、自発的な報恩の心でされるべきもの、「きしん」は金銭、物品の寄付に限らないこと、又「きしん」は日々されるべきものであることを教えられたのが、つとめ場所のふしんの一つの大切な点で、教祖は本席さんのその後の通り方によって教えられていると思われます。
  十月二十七日上棟式の翌日大和神社の節が起ります。この節のきっかけとなったのは上棟式当日、めでたい祝い事であるのに、私の推測では教祖は何もされず(嘉永六年の母屋取りこぼちの時は、「世界のふしんに掛る、祝うて下され」と仰せられた人夫に酒肴を出された)干物一尾づつと一、二升の酒が本席さんの奥さんによって出された(『教祖伝入門十講』)のを見て貧弱に思った財産家の山中忠七さんが、自宅に招待して十分なもてなしをしようとしたことにあります。一行十二名は全員三日間食事も与えられず拘留されます。本席さん、山中さん以外の十名のふしんに心を合わせた人々は皆信心をやめ、お屋敷に寄りつかなくなります。しかし本席さんは報恩の念変ることなく、唯一人でもコツコツと毎日仕事を続けられ、秀司先生のふしんの心配にも「何にも案じて下さるな。内造りは必ず致します。」と答えられています。又「この普請が始まると、その最初から、夫婦共々お屋敷に住込んで、普請の上に精魂を傾け尽して来た。そして大和神社の節の後も、人々の信仰にはそれぞれ動揺があったが、伊蔵夫婦の信仰は微妙だにもせず益々心の冴えを示した」(『私の教祖』中山慶一著)とも記されています。
 
ところでつとめ場所は翌年の慶応元年に完成しますが、「この普請は三十年の見込み」と言われます。どのような意味でしょうか。「新築成った明るい綺麗なつとめ場所こそ、正しく成人の歩を進めた、心のふしんの姿であり、きりなしふしんへの門出であった。」(『教祖伝』六一、六二頁)ここからつとめ場所という形のふしんはできたが、それに相応しい心のふしんはまだまだであと三十年はかかる、きりなしであるということを教えられているのでしょうか。
  元治元年から三十年後は明治二十七年で、翌年十一月十四日教祖の御普請御許し願いが出されますが、「成人半ばで思案という理出掛けたらどうもならん」と仰せられ「仮屋」の許しだけで普請は差し止められます。明治二十七年、八年頃お道は燎原に火の勢いで伸び広がり、信者数三百万をこえたといわれていますが、心のふしんが進んでおらず、人間思案や御利益信心の息を出ていない人が多かったと思われます。翌二十九年には本教の撲滅を指示する内務省の秘密訓令が出され、大和神社の節をはるかにこえるスケールの大きい親神からの真実の心をみるためし、教内の指導的立場にいる人の仕込みがなされることになります。「たすけふしぎふしん、真実の心を受け取るためのふしぎふしん。」(M23.6.15)このおさしづは「ふしん」は「たすけぶしん」であるがゆえに 「ふしん」には予期しない節を伴いやすいという意味も含んでいるとも受けとることができます。
 ともあれ教祖はつとめ場所のふしん以後「じつのたすけハこれからや」(三下り、四ツ)と教示されますように、たすけ一条の道の根本であるおつとめ、さづけを教えられ始め、その勤修と取次ぎによって心のきりなしふしんを進められますが、教祖の御苦労はまさにここにあったと言えるのではないでしょうか。

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