神一条の信仰
「この道は智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いとは言わんのや。」(『逸話篇』百九十)
このお言葉は明治十九年春、肺病に近い肋膜炎にかかった高安初代松村吉太郎さんが、親戚の僧侶や担当の医者から天理教の悪評を吹き込まれ、それまで反対していたこのお道を、両親や兄弟の説得で本気に信仰するようになり、不思議な救けを頂いて、ぢばに御礼参りをした時に教祖から諭されたものです。
氏は当時若干二十才で、学問の素養などもあったため、お屋敷に寄り集う人々に見受けられる無学さ、粗野な振舞いに軽侮の念を感じていたようです。教祖にそのような高慢な心をすぐに見抜かれ、心の底からさんげをし、ぢばの理の尊さを深く感銘したと記されています。
氏はその当時村役場に勤めていますので、毎週土曜日の午後からぢばに帰り、日曜日に教理のお仕込みをうけ、月曜日の未明にぢばを出発し、役場の出勤時間に間に合うように高安に帰るのが常であったと伝えられています。元治元年五月本席さんが初めてお屋敷に参詣された時に、教祖は「さあ~~、待って居た、待って居た。」と喜ばれ、続いて「救けてやろ、救けてやるけれども、天理王命と言う神は、初めての事なれば、誠にする事むつかしかろ。」といわれています。「誠にする」とは親神、教祖を絶対的に信頼する、神一条に徹しきるという意味と考えますと、このお言葉によって本席さんの心が試されていると悟れます。教祖には一介の大工が後の本席と定まることが決定されていたと思われます。
松村さんの場合も、明治二十一年一月八日身上についておさしづを伺うと「神一条の道一寸難しいようなものや。一寸も難しい事はないで。(中略)天理王命という原因は、元無い人間を拵えた神一条である。(中略)元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者でない。ほんの何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け。何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし、女の処入り込んで理を弘める処、よう聞き分けてくれ。」と諭され、親神、教祖への絶対的信頼、神一条を強く求められます。本席さんと同じく後に一派独立運動などの困難に対処できる用木としての素質を認められ、将来を嘱望されていたと思われます。
「艱難汝を玉にする」という諺通り、明治二十二年には三月三日第六号の指令をもって本部からの教会設置の認可は頂いたものの、四月十六日には大阪府からの認可は却下され世間の嘲笑、親戚からの非難をうけます。また同年七,八月には祖母タミ、父栄次郎がそれぞれ身上という節を見せられます。二人の病勢がいよいよ募り、危険が迫ってきましたので、松村さんは悲壮な決心で、十三ヶ条の誓文をしたため、本文を神前に供え、その写し文は常に氏の懐中に収められ、その実行を怠ることがなかったと聞かせて頂きます。
この誓文は人間思案をすて、神一条に立脚して心定めをされたと思われますので、参考のために、用字用語を現代表記にし、一部省略、改めて紹介させて頂きます。
一、両親は月日の名代なれば、月日に仕える礼をもって仕えること
二、家内はもちろん、他人へも我が力の及ぶ限り、相互助け合いの精神をもってする
三、日々の勤めは、米を買って日々生活する貧乏人の如き、どんと落ち切りたる者の心になって、人に迷う事なく、人の上に立つ事なく(中略)兄弟はもちろん、いかなる人もその人の心に応じて交わり、いかなる人も人は神なりと思って、その言に迷う事なく仕える
四、朝は早く起き、夜は遅く寝て、たすけ一条のため、慈悲善根の道を修めるに怠る事なく、終日終夜をもってこの道に従事する
五、誠の精神をもって日々家事を治め、一時通る道すがらにより難儀不自由はもちろん首に袋をかけるような処まで落ち切る道を通らされても、決して神をうらむ事なく、心に不足を思う事なく、(中略)千金を積み重ねても貧のため誠を変えることなし
六、今後は、神一条の道に心を寄せ、決して神の御話を疑う事なく、神の道を貫徹するには刑場についても変える事なく(中略)心は神一条の精神をもって貫徹すること
七、神の道において、我が精神にこれなりと定めた上は他よりいかなる事を言っても徹頭徹尾身命を投げうってこれに抗って貫徹すること
八、仇は恩をもって報じ、人の悪しきは先ず我が悪しきと思うこと
九、禍福は皆我が行ないにより来ると知るべし、故に後悔あるときは、これに代わる善を行なう
十、艱難より来る安楽でなければ甘んじる事なく、天然のたのしみを楽しみて、自ら求めて楽しむことなし
十一、正直にして人を疑うことなく、人に欺かれても、人を欺く事なし
十二、心は活発で憂鬱になることなく、百事(どんなことも)理(神)を恐れて人を恐れる事なし
十三、我は神一条の道に専念して、全家の和合を謀り、全家愛心をもって第一の基とする
この誓文の決死の実行にもかかわらず、祖母、父が出直すことになりますが、教会設置の方は翌明治二十三年六月十日付で大阪府からの認可がようやく下ります。それから氏の本格的な神一条の信仰信念に基づく、不退転で熱烈な信仰がさらに燃え上がり、明治四十一年十一月二十七日の一派独立の認可やその他の道の上の獅子奮迅の活躍、大教会の理の栄えを見せて頂く事になります。
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