さて輪廻の原義は流れること、生あるものがさまざまの形態の生をくりかえすことを古代インドにおいて意味し、それが仏教に入って具体的に五趣(天上、人間、畜生、餓鬼、地獄)あるいは六道(人間と畜生の間に阿修羅が加わる)として転生する世界が明示され、これが業の思想と結びついて、善き行いには来世での善き結果、よりすぐれた人間や天人への生まれかわり、悪しき行いには下等な人間、動物への生まれかわり等々と説かれ、人間に道徳的行為をすすめる積極的な役割とともに、宿命論という消極的な役割をもはたし
後世に至るまで多大の影響をおよぼしているのである。
この輪廻においては、輪廻の輪からの脱出、つまり解脱が人間にとって目指されるべき究極の理想であり、救済の成就と説かれる。
仏教においては、生まれかわる世界が人間界より上等の天上界であっても、それが輪廻の一部である限り、決して永遠に平安な世界ではない、と考えられているので、もはや生まれかわらないこと(生まれかわらなくなった人間は仏陀とよばれるが、それがどのような人間なのか、また生まれかわらなくなった人間はどのようになるのか、仏教において具体的に示されていない。それゆえに生死即涅槃というような考え方がでてくるのであろう)が苦からの解放であり、救済の完成ということになるが、本教においてはこの世に人間が何度も生まれかわりで出かわりしつつ、救済の目標であるこの世での陽気ぐらしに向かって成人していくと考えられている。
本教においては人間創造の目的は、この世における神人和楽の陽気ぐらしの実現であるから、生まれかわらないことが救済の成就である、と考えることは絶対にできないのである。 、
次に輪廻においては人間から動物(畜生)への転生が説かれるが、本教においては、この問題はどのように、考えられているのだろうか。
諸井政一著『正文遺韻抄』にのせられてある「人間の数について」を少し長いが引用して検討してみよう。
「元は、九億九万九千九百九十九人の人数にて、中に、牛馬におちて居る者もあるなれど、此世はじめの時より後に、生き物が出世して人間とのぼりているものが沢山ある。それは、とりでも、けものでも、人間をみて、ああうらやましいものや、人間になりたいと思ふ一念より、うまれ変わり出変わりして、だんだんこうのうをつむで、そこで、天にその本心をあらわしてやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、さういふわけで、人間にひき上げてもらうたものが、沢山にあるで」(153頁)
ここには動物から人間への進歩(?)とともに人間から動物への退歩(?)が「牛馬におちて居る者」という言葉によって示されていて、人間の数が元の子数より増えている訳が教えられているのであるが、人間が牛馬におちること、牛馬が人間に転生することは文字通りに受け取ることが果たしてできるだろうか。
言うまでもなく引用した文章は、教祖の御言葉に基づくものであり、後世の人の作り話であるとは、まず考えられないから、問題はそれをそのまま受け取るか、あるいはたとえ話として、当時のいかなる人にもわかる話として、受け取るかであり、どちらであるかは「牛馬におちて居る者」の解釈いかんによる。
「いままでハぎうばとゆうハままあれど あとさきしれた事ハあるまい」、「このたびハさきなる事を此のよから しらしてをくでみにさハりみよ」(五、1,2)
この二つのおふでさきの意味は『おふでさき注釈』によると「これまでから牛馬におちる、牛馬におちると説く者もあるが、如何なる者が牛馬におちるか、又如何にして牛馬の道から救われるか、今日まで明らかに説き諭した事はないから、だれも知らないであろう」、「この度は、身に障りをつけて、来世の事をこの世から知らしておくから、現れている我が姿を見てよく反省せよ」と解され、牛馬は文字通り牛馬とみなされている。また「来世の事をこの世から知らしておく」とは、今世うけている病気によって、来世牛馬に生まれるかどうかを知らせる、という意味として解されている。
ところが「だんだんとをんがかさなりそのゆえハ きゆばとみえるみちがあるから」(八、54)のお歌の場合、『おふでさき注釈』によると「恩に恩を重ねたならば、さいごには牛馬に等しい道におちるの外はない」と解され、牛馬は、牛馬に等しいもの、つまり牛馬そのものではなく、牛馬とみえる、牛馬のようなものとして受け取られているのであるから、この場合は人間は牛馬におちないということになる。
先のお歌の「ぎうば」と今のお歌の「きゆば」の「う」と「ゆ」の文字の違いが、そのような解釈の違いをもたらしているとは、とても思えないが、『おふでさき注釈』による限りでは、二つの解釈が成立するということになる。(もっとも後のお歌の「牛馬とみへるみち」を牛馬のような道と解さず、来世には牛馬になることがみえている道とうけとると、牛馬はあくまで牛馬であるとの先のお歌と同一の解釈とみなすことができる)
では一体どちらが正しいのであろうか。
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