2011年10月12日水曜日

No.31 教祖を身近に 連載 第31回 月日のやしろ

月日のやしろ

「いまなるの月日のをもう事なるわ くちわ
にんけん心月日や」(十二、67)
「しかときけくちハ月日がみなかりて 心ハ月日みなかしている」(十二、68)
 このお歌は本教教義の根本を教示されたもので、親神の御心は教祖のお口を通して伝えられる、つまり親神が教祖のお身体に入りこんでおられる、教祖は「月日のやしろ」であることを明示されているわけですが、「月日のやしろ」とはどのような意味をもつのでしょうか。
 
教祖は他宗の宗祖,開祖のように悟りを開いたり、霊感をうけた、神の霊がのり移ったり、宿ったり、単に啓示によって神の声を聞き伝えたのではなく、親神が直接的にこの世の表に現われるための仲立ちをされたお方であり、親神が仮の姿をとってこの世に現われているわけではありません。
 教祖は立教以来一貫して「月日のやしろ」として、人間心はなく、月日親神の心で五十年のひながたの道を通られます。それでは教祖のお心と親神の心とは全く同一で、教祖は親神の単なるロボットであられたのでしょうか。
 
本席さんは「席に入り込んだら神やで。なれど、入り込まん時は人間やで。」(M40.4.12)と示されますように、親神が入り込まないときは人間ですが、教祖は地上の月日で、いつも神ということになります。では教祖の神的主体性(人間心ではない)は認められないのでしょうか。
 一般に「やしろ」は社で、神のおわす場所、降臨する場所と理解されています。本席さんが元治元年奥さんの身上をたすけられた御礼に社の献納を申し出たとき、教祖は「社はいらぬ」と即座に仰せられています。教祖は「月日のやしろ」であられるからですが、これは「やしろ」とは教祖の御身体という意味でしょうか。
 
荒川善廣氏は「やしろ」とは教祖の身体ではなく、魂であり、身体は「やしろの扉」であると解釈しています。この解釈では教祖は明治二十年現身をかくされて後も、「月日のやしろ」として存続され、教祖の魂が「月日のやしろ」として今も現実に人間救済のために働かれているということが「存命の理」として理解されることになります。(『「元の理」の探究』)
 では親神と教祖はたすけ一条のお働きにおいて違いはないのでしょうか。深谷忠政氏は『親神と教祖の関係はABで示される「全等」ではないが、ABで示される「等しい」のである』(『天理教教義学序説』二百四十二頁)とのべていますが、その微妙な差異はどこにあるのでしょうか。
 
『逸話篇』二十二で、親神はおふでさき御執筆に際して教祖に「書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで」、「心鎮めて、これを読んでみて、分らんこと尋ねよ」と仰せられています。また他にも宮池の「短気出すのやない」、をびやためしの「今日は、何処へも行く事ならぬ」、『逸話篇』二十五の「駕籠に乗るのやないで。歩け。」等の教祖に対する指図、命令の言葉を発せられています。これは「月日のやしろ」を理解できない人々に御自分の心を親神と御自分の心に分けられ、あたかも親神の指図であるかのようになされたとのうがった見方もできますが、「これは「月日のやしろ」であられても、教祖は親神とは異なった神としての主体性をもたれておられたということではないでしょうか。「心ハ月日みなかしている」とは教祖のお立場からは「かりている」ということで、借りるということは、そこに教祖の親神とは異なる神的主体性がみとめられるのではないでしょうか。(これは教祖に人間心があるということでは決してありません)
ぢきもつをたれにあたへる事ならば
このよはじめたをやにわたする(九、61)
月日にハこれをハたしてをいたなら
あとハをやより心したいに  (九、64)
 
このお歌の「をや」は教祖で、「親神からこのぢきもつを教祖に渡してさえ置いたならば、それから先は、教祖から心委せに、渡してやるがよい」(『おふでさき註釈』)と解しますと、ここにはっきりと教祖の「月日のやしろ」としての独自の主体性をみることができます。
どのよふなたすけするのもしんちつの をやがいるからみなひきうける(七、101)
 この「をや」は親神、教祖のどちらをさすのか解釈がわかれるかもしれませんが、先の(九、64)のお歌の解釈から考えますと、私たちは教祖を通して(御在世中も、現身をかくされてからも)救済に浴せますので、教祖であるとともに親神でもある、といえます。親神と教祖とは、月日と「月日のやしろ」として理においては一つですが、お働きにおいては二つの、といっても、二つ一つの区別があるように思われます。
 
「月日のやしろ」としての具体的なお働きが「存命の理」で、「存命の理」としてのお働きは主としてさづけをとおしてのお働きで、親神のお働きは十全の守護として万一切に及び、人間創造をはじめとするそのお働きの様式が、かぐらづとめによって教えられていると考えますと、両者はさづけとつとめを通してのお働きとみなすことができます。ではつとめとさづけはどのようにつながるのでしょうか。
 
つとめとさづけは、たすけ一条の道として教祖から教えられたものですが、どちらが大切か優劣のつけられるものではなく、さづけの地歌が、かぐらづとめの第一節(慶応二年に教えられた)と全く同じことから分りますように、さづけはつとめを前提とし、つとめはさづけによって補われ、より完全なものになるといえるのではないでしょうか。

 有機体(例えば生命)における個(各器官)と全体(生命)を考えますと、個は全体を前提として成立し、全体は個の歪み、バランスの乱れが正されることによって、より充実、完成したものとなります。
 このことから考えますと、さづけによる身上だすけは親神の十全の守護を前提として成立し、そのたすけによって、全体の働きのバランスが回復し、その働きがより活性化するようになる、或いはその働きがより完全なものになっていくと悟れるのではないでしょうか。このように考えることが許されますと、「月日のやしろ」としての教祖は、「存命の理」による不思議だすけを通して、私たちを親神の十全の守護に目覚めさせることによって、つとめの完成に心を向けさせ、つとめの充実によって、親神による真のたすけ、めづらしたすけが実現するように昼夜を分かたずお働き下さっている、この意味で、「月日のやしろ」、「存命の理」としての教祖と親神のお働きは、たすけ一条の一なるお働きの二つの側面であると悟ることができるのではないでしょうか。

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