2011年10月10日月曜日

No.14 教祖を身近に 連載 第14回 第一第三合一節 

教祖を身近に 連載 第十四回 「第一第三合一節」

「さあ\/これは使い切れにするのやないで家の宝やで。いつでも、さあという時は、これを着て願うねで。」
「これを着て、早くかんろだいへ行て、あしきはらいたすけたまへ いちれつすますかんろだいのおつとめをしておいで。」                      (『逸話篇』五一「家の宝」)
 
これは村田イエの息子亀松の腕が痛み、教祖の御前へ行ったときに、教祖が仰せられたお言葉ですが、注目すべきことは、ここに二代真柱様が「第一節第三節の合一されたお歌」(『続ひとことはなし その二』)と記されているお歌が明示されていることです。
 これは写本としては明治十四年の大阪天恵組発行『拾弐下り御勤之歌』という私刊本に初めて出てくるお歌で、二代真柱様は「第一節及び第三節の古い形」であったのが、明治十五年のかんろだいの石の没収による「模様がえ」の史実の結果、上の句、下の句にそれぞれ下の句、上の句が加わり、語尾も多少変えられて、現在の第一節「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」第三節「あしきをはらうてたすけせきこむ いちれつすましてかんろだい」の二節になったとの見解を示されています。(前掲八二頁)
 又永尾廣海氏は「第一節は厳然と伝えられており、第一第三合一節は、むしろ、第三節に替って、信者によって一時期歌われたものであるかもしれない」(『みかぐらうたの世界をたずねて』四八頁)と理解しています。

「みかぐらうた」は教祖直筆のものはなく先人たちによって筆写されたものが現存しているだけですが、不思議なことに初期の写本(慶応三年、筆者山中彦七)から明治十年の写本までほとんど第五節(一下り~十二下り)のみ、あるいは第四節(よろづよ八首)、五節だけで、第一、二、三節が記されていません。又明治十年以降になると徐々に五つの節が写されるようになりますが、その並び方は第四、五節が先に来るものが多く、明治十七年からの写本では二、三、一、四、五節の順が主流になり、明治二十一年十一月に出版された初の公刊本によって、ようやく現行の体裁をとるようになります。
  
第一、二、三節はかぐらづとめの地歌ですので、次にこの三つの節の変遷について考えてみますと、第一節は慶応二年秋に「あしきはらいたすけたまへ てんりわうのみこと」の歌と手振り(歌を唱えるだけのつとめも記録に残されています)を教えられますが、当初は回数は不定で、拍子木を打ちながら、ひたすら親神への祈念を繰りかえすだけであったようです。明治三年第二節の歌と手振りが教示されますが、それ以後第一、二節を一緒につとめられたのか、第二節はかぐらづとめとして教えられ、日々のつとめでは第一節のみが勤められたのか分かっていないようです。
   ところで問題となるのは、第三節で、明治八年に「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りが教えられますが、上の句が「あしきはらうてたすけせきこむ」か「あしきはらいたすけたまへ」のどちらであるかということです。矢持辰三氏は前者(『教祖伝入門十講』)、『稿本中山眞之亮伝』では後者として、理解していますが、どちらが正しいのでしょう。
 明治七年桝井伊三郎さんに「かんろだいてをどりのさづけ」が渡されます。これは第二節の手振りのあと「あしきはらいたすけたまへ いちれつすうますかんろだい」を三遍唱え、三遍なでる、これを三回繰りかえすさづけですが、ここに第一第三合一節がはじめて出てきています。そして明治七年十二月奈良中教院から「天理王という神は無い。神を拝むなら、大社の神を拝め」と命じられ、天理王命の神名を差しとめられ、翌年ぢば定めをされ、「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りを教えられています。ということは教祖は成人させるための一時的方便として第一節を中断して、その上の句を第三節に残して第一第三合一節を第三節として教えられたのではないでしょうか。

「月日よりつけたなまいをとりはらい このさんねんをなんとをもうぞ」(六、七十)
 この意味を天理王命の名前を差し止められ、第一節の中断を余儀なくされたと解釈しますと第一第三合一節成立の理由がよくわかると思われます。『逸話篇』「家の宝」は明治十年六、七月頃の話で、『みかぐらうた語り草』(桝井孝四郎著)にも、明治八年に『かんだいのぢば定めもありまして、おつとめもかんろだい一条になったと聞かせていただいております。すなわち「あしきはらいたすけたまへ いちれつすますかんろだい」とのお手をおつけ下されたのであります。』(三六頁)と記されています。又『続ひとことはなし その二』にも、明治八年「それよりかんろだい一条のつとめとなり、御手十一通り教へなされました。日々のつとめは『あしきはらい、たすけたまへ、一れつすます、かんろだい』というおつとめでありました。」(一七八頁)と教えられています。
 
従って第一第三合一節は「第一節及び第三節の古い形」や、信者によって一時期勝手に使われたものではなく、教祖によって一時的に人間の成人の遅々として進まないもどかしさのために教えられたもので、人間の成人の鈍さが、明治十五年の二段までできていたかんろだいの石の官憲による没収という節となって示され、それによってかんろだいを先に建てて人間の心を澄ます方法から、心を先に澄ませ、その後にかんろだいを建てる方法への「模様がえ」が現行の第一節、第三節に変更することによって、なされることになります。しかし「模様がえ」といっても親神の想定の範囲内のことで、それまでの親神のお力にのみ依存する人々の姿勢に対して、人間自らの努力を強く促される親心の現われと思われます。
 しかしその後も明治二十一年十月二十六日の本部開筵式から朝夕のおつとめも現行通りつとめられますが、明治二十九年の秘密訓令により再び第一節は止められ、復活しましたのは、大正五年秋の大祭からで、かぐらづとめ、てをどりの地歌、勤修の受難はその後も続いていくことになります。

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