2011年10月10日月曜日

No.17 教祖を身近に 連載 第17回 教祖のおたすけ 

教祖を身近に 連載 第十七回 「教祖のおたすけ」

「お口で御自分のお手をお湿しになり、そのお手で全身を、なむてんりわうのみこと、なむてんりわうのみこと、なむてんりわうのみこと、と三回お撫で下され、つづいて、又、三度、又、三度とお撫で下された。ヤスは、子供心にも、勿体なくて勿体なくて、胴身に沁みた。」(『逸話篇』一二九)
  教祖は明治七年四名の者に身上だすけのさづけを渡されていますが、御自身はどのようにして、おたすけをされたのでしょうか。
  この逸話に示されている明治十六年のおたすけは、明治二十三年九月二十七日に飯降さとさんに渡された「撫でるさづけ」によるもので、「撫でてやるのは分かろうまい。なむ天理王命、と三遍言うて、三遍撫でてやれ。心楽しみ内々ほん心だけ。長らえ尽した理だけや。それで十分効くで、効かすで」と教示されています。
 
この飯降さとさんは元治元年五月、産後の患いを救けられますが、その時は散薬(ハッタイ粉と思われます)を与えられ、こかんさまの三日の願によるおたすけで、教祖による直接のおたすけはされていません。
  ところで教祖は月日のやしろとなられてすぐに内蔵に約三年間ほとんど毎日おこもりになられます。この三年間については、井上昭夫氏が『「こふき」のひろめ』の中で詳細に悟りを示していますが、謎のままで、ひながたの起点を内蔵の三年からとみる文献は見あたりません。二代真柱様は内蔵の中で「月日の思いを練っておられた」、月日親神の「お言葉を人間にどういうふうに伝えたならばわかってくれるだろう」と教祖は考えておられた(『「こふき」のひろめ』三五七頁)と述べられています。具体的にはどのように悟れるのでしょうか。
『正文遺韻抄』に次のように記されています。「神様の仰せにしたがって、黒のおめしものばかりめして、世帯の事には、更におかまひあそばさず、せんこ一本たてゝ、なむてんりわうの命くと、唱へてござった。」(三七頁)、「尤も神憑りの時より、なむてんりわうのみことゝとなへて、教祖様は朝晩おつとめをなされたのでござります。」(五三頁)この「唱名のつとめ」(仮称)はどこでされたか考えますと、母屋の座敷、仏壇の間よりも、内蔵の中とみる方が自然ではないでしょうか。もしそうなら教祖は内蔵の三年間、つとめのふせこみをされたのではないでしょうか。かぐらづとめの地歌は立教から二十九年目から教えられ始めますので、それまでのたすけの方便として「唱名のつとめ」を教えられ、そのふせこみを内蔵でされたと悟れないでしょうか。
『逸話篇』(三、内蔵)に、天保九年「秀司の足、またまた激しく痛み、戸板に乗って動作する程になった時、御みずからその足に息をかけ紙を貼って置かれたところ、十日程で平癒した。」と記されています。これは明治七年に渡された息のさづけとお息の紙のことと考えますと、教祖は内蔵において、さづけのためのふせこみもされたのではないでしょうか。
 内蔵から出られた天保十二年、教祖四十四才で妊娠七ケ月目に、をびやのためしがあり流産されますが、その時御自身に息をかけられたのではないでしょうか。嘉永七年三女おはるさんにもをびや許しをはじめて出されますが、その時腹に息を三度かけ、三度撫でられ、息と撫でるさづけの取次ぎ方をされています。『教祖伝』には「一心に親心に凭れて居れば」と記されていますが、「ためし」である以上、息のさづけのようなものがあったのではないでしょうか。
 又「唱名のつとめ」によるおたすけについては、文久三年辻忠作さんが妹の気の間違いを伺うと、教祖は「ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に」と仰せられ、線香一本消えるまで拍子木をたたいて、そのつとめをするように教えられます。線香を半分にしてつとめたところ御守護を頂けず、「つとめ短い」と御忠告され、仰せ通りつとめて薄紙をはぐように次第に御守護を見せられます。
 同じ文久三年飯田善六の子供のおたすけをされますが、どのようにして救けられたのかわかりません。
 
この「唱名のつとめ」によるおたすけは、数多くの方々に教えられたのでしょうか、『逸話篇』にいくつか散見されます。
「三六、定めた心」では、増井りんがソコヒになって失明しますが、「いんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも、たすけ一条のため通らせて頂きます」との心定めをして、三日三夜の「唱名のつとめ」によるお願いをして、全快の御守護を頂きます。「針の芯」(赤衣を仕立て、それをお守りに作られる中心となる者)として長年勤められ、九十七才まで長生きされ、出直されるまで針の糸を我が目で通された、と言われています。
「四二、人を救けたら」には「唱名のつとめ」による願いによって榎本栄治郎の娘の気の違いが救けられています。
「七二、救かる身やもの」では泉東初代が教祖から頂いたお水(水のさづけの水かもしれません)を唱名しながら、痛む腰につけることによって、三日目には夢の如く痛みがとれる御守護を頂いています。
「八五、子供には重荷」では松井けいの歯痛が「唱名のつとめ」と茶碗の水を飲んで治まっています。
「一〇〇、人を救けるのやで」では小西定吉が「天理王尊」と書いた紙を床の間に張り、「唱名のつとめ」によって不治と宣告された胸の患いを御守護頂いています。
 教祖はつとめとさづけを教えられるまでの方便として「唱名のつとめ」、息、撫でるさづけ等によって、多くの人々を救けられますが、これは教祖のお徳、親心にすがってのおたすけでありまして、教祖は私たちにつとめとさづけとともに御恩報じとして人救けの行為によって、救かっていくことを望まれておられるわけであります。

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