存命の理(1)
「存命でありゃこそ日々働きという。働き一つありゃこそ又一つ道という」
(M.29.2.4)
「影は見えぬけど、働きの理が見えてある。これは誰の言葉と思うやない。二十年以前にかくれた者やで。なれど日々働いて居る。案じる事要らんで。勇んで掛かれば十分働く」 (M.40.5.17)
これは「存命の理」を明確に示されたおさしづですが、これを教理的に理解することは当時の人々にとってだけではなく、現在の私たちにとっても、「教祖存命一つ治めさしたは容易やない。これしっかり聞き分け」(M34.5.25)と示されますように、「月日のやしろ」と同じく困難に思われます。
「存命の理」とは、たすけ一条の心定めをした人の心に教祖がいつもおられる、というような主観的なものではなく、おたすけ活動における具体的、現実的なお働きとして示されるもので、教祖は現身をかくされてからも、元のやしきに留まられ、世界だすけの上にお働き下されている、と教えられています。「教祖幽ニ帰スト雖モ其霊魂ハ冥界ニアリテ守護ヲナシ、殊ニ此屋敷ニ留マリテ万人ノ助ケヲナス」。(『ひとことはなし その2』72頁)この中の「冥界」という言葉は適切かどうか気になりますが、果たしてそのお働き、「存命の理」は教祖が現身をかくされたその瞬間に初めて示されたのでしょうか。
「存命の理」について、「相対的、特殊限定的存在であった教祖が、姿をお隠しになることによって、時間的な永遠性を得られるとともに絶対的、普遍的な存在となられたのである」という見方があります。しかしこれでは教祖は現身を隠されて初めて人間から神になられ、「存命の理」が成立すると誤解されるおそれがあります。
教祖が「月日のやしろ」であられたということは、現身をもたれていても、御魂においては、身体的制約はありますが、絶対性をもたれ、時間空間をこえてお働きを示されることができた、この意味で「存命の理」としての立場をもたれておられたのではないでしょうか。
教祖が「月日のやしろ」であられたということは、現身をもたれていても、御魂においては、身体的制約はありますが、絶対性をもたれ、時間空間をこえてお働きを示されることができた、この意味で「存命の理」としての立場をもたれておられたのではないでしょうか。
『逸話篇』四四,八八で教祖は増井りんに「親神が手を引いて連れて帰ったのやで」、土佐卯之助に「危ないところを、連れて帰ったで」と仰せられていますが、「月日のやしろ」の教祖と親神はお心において一つですから「存命の理」としてのお働きの具体的な例としてうけとることができます。
いまゝでハみすのうぢらにいたるから
なによの事もみへてなけれど (六、61)
なによの事もみへてなけれど (六、61)
このたびハあかいところいでたるから
とのよな事もすぐにみゑるで (六、62)
このお歌は明治七年教祖は赤衣を召され、目にみえる形で「月日のやしろ」であることを示されたと説明されますが、よく検討しますと、「存命の理」としてのお立場を示されたとも解せます。「みすのうぢら」、御簾の内側には社があり、その扉もあると考えますと、神道祭祀では祭のときに社に献饌をして扉が開けられます。そして神を招くわけですが、教祖が現身をかくされるときに、「扉を開いて」世界だすけにでられたことを考えますと、この時も扉を少し開いて「存命の理」としてのお働きを示され始められたのではないでしょうか。
教祖は明治七年十二月二十六日赤衣を召され、すぐに四名の者に身上だすけのさづけを渡されています。「存命の理」の具体的なお働きが、さづけとお守り(お召しおろしの赤衣)等を通して示されることを考えますと、納得できるのではないでしょうか。
十一に九がなくなりてしんわすれ
正月廿六日をまつ (三、73)
『おふでさき註釈』には「このお歌は教祖様が現身をおかくしになることを示されたもので、教祖様御在世中は教祖様を目標として社会の迫害がだんだん激しくなるので、かくては道が遅れるから、教祖様は二十五年の御寿命をお縮めになり姿をおかくし下され,世間の圧迫を少なくして道を弘めるもよう立てをする。それまでに真柱も定まり、かんろだいも建設されるから、皆々の心を澄まして、早く人衆そろえてつとめごしらえに取り掛かるようにせよ、とお諭しになったのである」と説明されています。
このお歌は明治七年のものですので、親神はこの時点で明治二十年の「扉開いて」を決定されていたと考えますと、「扉を開いて」か「扉を閉まりて」か、という神人問答は無意味となるのでしょうか。
明治二十年までの十三年間は、明治八年にぢばが定められ、それからつとめの完成に向かって準備が進められていきますが、それとともに現身の教祖に依存してご守護を期待する、単に親心に甘える信仰から、教祖の背後、根底にある月日親神、「月日のやしろ」としての教祖にもたれる神一条の信仰、「存命の理」への信仰、また「存命の理」の確証であります、さづけの取次ぎによる人だすけの実践という信仰的自立の確立を人々に求められたのではないでしょうか。
それを明治七年から始まります教祖の御苦労をとおして、教祖の御身上を台にして、仕込まれたように思われます。明治十五年の官憲による石造りのかんろだいの没収の意味もこの観点から理解されると思われます。
「さあ~~正月二十六日と筆に付けて置いて、始め掛けた理を身よ。さあ~~又正月二十六日より、やしろの扉を開き、世界ろくぢに踏み均しに出て始め掛けた理と、さあ~~取り払うと言われてした理と、二つ合わして理を聞き分けば、さあ~~理は鮮やかと分るやろ」(M22.3.10)
このおさしづの中の一つの理は、明治二十年陰暦正月二十六日のことであることはすぐに分りますが、もう一つの理を明治十五年の二段までできた石造りのかんろだいの取り払いと考えますと、ともに信仰的自立、成人を促される親神の子供可愛い故の大節と悟らせて頂くことができます。
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