教祖を身近に 連載 第七回 「水を飲めば水の味(一)」
「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」(『教典』四八頁)
教祖は天保九年十月二六日、月日のやしろとなられてから、親神の貧におちきれ、との思召のままに、嫁入の時の荷物をはじめ、食物、着物、金銭やはては中山家の母屋、田畑に至るまで次々に施しを続けられます。夫善兵衛さんの出直された嘉永六年から、つとめ場所ふしんの元治元年までの十二年間は「三十年来寒ぶい晩にあたるものも無かった」「どん底のどん底生活」を教祖はされますが、小寒様が「お母さん、もう、お米はありません」といわれ、それに答えられたのが、このお言葉であったのです。
このお言葉の意味を考える前に、五十年のひながたの約半分の間続けられます貧におちきられたことの意味を考えてみましょう。
この貧におちきられたひながたは、常軌を逸しているので、世間の人の無理解、嘲笑、非難を招き、教内においても教祖だからあのようなこともなされた、昔だから通られた、というような今の私たちにとっては単独布教をするような一部の人をのぞいて、余り縁のないひながたと受けとられるかもしれません。しかし「ひながたの道を通らねばひながた要らん」(M22.11.7)とまで仰せられますので、そこには「万人のひながた」、信仰の有無、信仰年限の長短、立場の上下、民族の相違にかかわらず、陽気ぐらしを求める者がひとしく通らなければならない深い意味があると思われます。
まず貧におちきる道中は、万人たすけの道場を建設する前段階として必要なものであった、という解釈があります。この解釈の成立する根拠は立教のときの「この屋敷にいんねんあり」という言葉で、中山家の私有財産である家屋敷は「やしきのいんねん」によって神のやしきとなる必然性があり、そのために教祖は邪魔になる一切のものを「程越し」されたとみなされます。従って教祖が嘉永六年の母屋とりこぼちのときに言われた「世界のふしんに掛る。祝うて下され」とのお言葉も「世界のふしん」は十一年後のつとめ場所ふしんとなって具体化の第一歩がしるされ、その意味がわかるようになります。
この解釈は史実に基づき、形あるものによって根拠づけられていますが、貧におちきることが積極的な意義をもたないことになります。つとめ場所、「世界のふしん」(目にみえる形での)が主で、貧におちきることは従の消極的、否定的な意義しかありません。又貧におちきることは単に教祖にとってのひながたで、「万人のひながた」にはならないのではないかと思われます。
次に主観的解釈をみてみましょう。この解釈は「物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける」(『教祖伝』二三頁)との見方に基づくもので、貧におちきることによって、世界の対立抗争の原因となり、陽気ぐらし実現の妨げとなっている物への執着、欲、高慢の心をとること教祖は私たちに教えられた、とみなされます。
この解釈は現代においても通用するもので、「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」(『逸話篇』三頁)「難儀不自由からやなけにや人の難儀不自由は分からん」(M23.6.12)等の見方や、又貧におちきることを一切の人間思案をすて、心を裸にして親神の思召どおりになること、つまり神一条になることとみる解釈においても示されています。しかし単に物への執着をとり、神一条で通ることを教え、物や形の上で不自由する中に、人の苦しみ悩みがわかる人間になることを教えるためにのみ、貧におちきられたのでしょうか。
なるほど神一条で通ることが大切であることは言うまでもありませんが、しかし単に神一条を言うだけなら、およそ宗教において神一条を強調しない宗教はありませんから、特に本教独自のものとは言えません。又形の上で自ら進んで不自由することによって悩める人と共感する、といっても本教独自のこととは言えない。とするなら貧におちきることは他宗においても表現こそ異ってもみられるにすぎないものなのでしょうか。もし他宗と異なる本教独自の点があるとすればそれは何なのでしょうか。
さて『教典』六頁に「教祖は世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切り、しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示された」と記されていますように、貧におちきることは人間をたすけたい一心から通られた道中であることは、立教の「世界一れつをたすけるために天降った」との御宣言を引用するまでもなく明白で、このたすけ一条を除外して、貧におちきることの意義は考えられませんが、貧におちきることとたすけ一条がどのようにつながるのかを考えますと決して明らかではありません。
「程越し」の施しによって貧しい人をたすけられた、と一見思われますが、実際に施しをうけた人がほとんど道につながっていない史実をみますと、一時的な物質的困窮を救うために貧におちきられたとも思われません。どのように考えればいいのでしょうか。
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