2014年6月13日金曜日

No.104 教理随想(55) 生まれ更わり(2)

   前置きはこのくらいにして、「出直」の教理がわれわれに何を教えるのか考えてみよう。
  先に引用したように「出直」とは、「古い着物を脱いで、新しい着物と着替えるようなもの」で、人間は死んでもまたこの世に生まれ更わってくるのであるが、この「着物」は人間が自由に着たり、脱いだりできるものではなく、心にふさわしく貸し与えられるものである。
  
  つまり「出直」はまずかしもの・かりものの教理を教えるのである。人間の身体は親神からのかりもので、借りている間は生命を持つが、「出直」によってかりものを返し、また新たなかりものを借りて、新しい生を始めるわけである。
 従って「出直」は、われわれに生命の尊さ、かけがえのなさを間接的に教えてくれるように思われる。
 
  古来多くの人は、死の問題を論ずるに際して身体と魂を分離し、身体は死によって解体して無に帰すものであるのに対して、魂は不滅で、死によって身体から自由になり、精神的な永遠の生に入る、と考えられてきたのであるが、このような思想はともすると、身体に対する精神の優位を説くあまり、身体を副次的な、それ自身価値をもたないものとして、軽視する危険性をもつであろう。
 
  これに対して「出直」によって教えられることは、魂は不滅であっても、この世を離れたところに永遠の生を認めず、あくまでこの世に生まれ更わりし、この世における身体的生命が問題とされる、ということであるから、そのような思想とは逆に、われわれに生命の重さ、かけがえのなさを間接的に教示するように思われる。
 
  本教において「着物」は精神と比べて価値の低いものではなく、親神の十全の守護が入り込んで働いている有り難く尊い存在である。
・・・人間にわみな神かいりこみ、なにのしゆうごもするゆゑに、人間にまされた神かないことなり。・・・(『神の古記』明治十六年本)と明示されるように、「着物」は人間の精神の足かせとなるようなものではなく、逆に神聖なものであり、「着物」を着せられていることは、「もはや奇跡としか言いようのない出来事である」(池田士郎氏『身体と信仰』)

 「出直」によって教えられることの第二点は、これまたかしもの・かりものの教理から派生してくる「心一つが我がのもの」という主体性である。次にこの点について考えてみよう。
 
  さて人間の生死のパターンについては、死によってすべてが終わるという人生一回説、死後極楽や地獄というこの世からかけはなれた場所での生を認める二回説、死後何度も生まれかわってくるという無限回説の三つに大別することができる。
 
  人生一回説は無信仰者の常識的な見方で、二回説は多くの宗教においてみられる死生観であるが、ともにこの世を無前提に考える点において不十分な見方である。
  一回説においては、この世における不平等、不運はすべて不条理とみなされ、ニヒリズムにおちいったり、あるいは刹那的な快楽主義に走ったりして、この世の生を全うできなかったり、二回説においては、この世からの逃避の場所があの世や霊界において空しく求められるだけで、これまたこの世の生を充実させることがむつかしくなる。
 なぜなら両方ともこの世を前世を前提にして考えるのではなく、この世をいわば根無し草のごとく考えるからである。
 
  これに対して「出直」は無限回説の立場に立ち、前生、今生、来生の時間相において人間を見ることを教えるが、この「出直」によってはじめて人間の主体性が真に成立することになる。主体性とは単に「心一つ我がのもの」としての自由な心遣いを意味するだけではなく、
           なんぎするのもこころから
        
           わがみうらみであるほどに(十下り七つ)

   ・  ・・たった一つの心より、どんな理も日々出る・・・(M22.2.14

  と教示されるように、成ってくる現実を自分の現実として真正面からうけとめることも意味するが、人生一回説、二回説においては、この世の生が前生なしに考えられるので、この世の不運の原因が自分以外のものに転嫁されることになりやすく、そこには真の主体は成立しないからである。
 
  前生において親神は前々生の心づかいと通り方に相応しい境遇を与え、「出直」に際して、一代の清算をされ、その結果がそのまま今生にもちこされて今生の生がはじまり、人生が展開されるのであり、それを認めることによって、この世における不条理に光があてられ、この世における救済が可能になるのである。
 
  このように「出直」よって真の主体が成り立つと言えるが、ここで注意しなければならないことは、出直して生まれかわってくる主体は、前生、今生、来生を通じて同一の主体であるということである。姿、形は当然かわるが、心の持ち主は同じでありつづけるということである。この点がはっきりしないと次のようなおかしな議論になってしまう。
 
  八島英雄氏の生まれかわり論をみてみよう。
 「教祖の生まれかわりの考え方は、ちょっと違うのです。つまり次を生んで、また次を生んでというように教えてくださったので、自分から子供、子供から孫、孫から曾孫というように、だんだんに成長し立派になっていくことを教えられ、そういうふうに生き続けて八千八たびを繰り返したということをおっしゃっているのです」(『ほんあずま』)
 
  矢島氏は「元の理」の八千八度の生まれかわりをこのように理解し、死後の霊については「教祖のお話はない」、「死んだ人間については何も語られていない」とのべて、その存在を否定している。したがって霊魂不滅を信じないで、親、子、孫へと生命が連綿と続いていくことを、生まれかわりとして解している。
  このような見方は、輪廻を遺伝子の相続と考え、親、子、孫へと遺伝子が受け継がれていくことを輪廻とみなす解釈(花山勝友氏『輪廻と解脱』講談社現代新書参照)においても見られるが、こうなると厳密には生まれかわりとはいえないことになる。

 
  なぜなら一つの生存が終わり、それを縁として他の生存が始まったというだけでは、前者が後者に生まれかわったとはいえず、生まれかわりとはあくまで同じ主体が、死後再び姿を変えてこの世に現れること、つまり転生を意味するからである。

2014年5月24日土曜日

No.103 教理随想(54) 生まれ更わり(1)

「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで。」(『教祖伝』一五二頁)
 
 これは秀司さんが明治十四年、六十一才で出直されたときに、教祖が秀司さんに代わられて仰せられたお言葉です。私たちにとって一番気になりながらも、一番理解することの難しい死、出直し、生まれ更わりについて(『あらきとうりょう』163、164号「出直」について、を加筆、転載)勉強させていただきます。

 哲学者ハイデッガーは、人間を「死への存在」と規定した。これは単に死に向かって進んでいる存在という常識的な意味だけではなく、死とは人事ではない自己の不可避の存在可能性であり、死の自覚によって、それまでの世間に埋没した自己とは根本的に異なった本来的自己にめざめるということ、また常に死を意識し、死の危険が迫っていなくても、自分の死について思いをめぐらし、不安や恐怖にかられる存在である、という意味である。
 
 人間にとって死は避けることのできない必然的な宿命であるが、死すべきものであるがゆえに必ずしも苦しむわけではなく、死の意味が分からず、不安、恐怖にかられる「死への存在」であるが故に悩むのである。それ故に古来宗教や哲学は「死とは何か」に種々の解答を与え、死を避けることなく、死を人生に積極的に位置づけることによって、死の苦悩から人間を解放しようとつとめてきたが、未だに十全なる解答を提示しえていないようである。
 
 このことはわれわれを死から守り、死の恐怖をやわらげるために貢献してきたと思われている近代現代医学についても同様である。
 なるほど今まで不治の病が医学の発達により予防されたり、治療法が見出されて助かるようになったり、平均寿命が延びてきたことは周知の通りである。しかしこのことはもろ手を挙げて喜べることとは必ずしも言えないと思われる。

 最近話題になっている脳死や臓器移植の問題は、死の時期の観点からすると、前者は死を手前にずらし、後者が死を先へ伸ばすことにほかならず、人間の死が医学によって、矛盾した形で操作されるという不気味な事態であるとらえるとき、「われわれを死から守ってくれると思っていた近代医学が、われわれの死を促進するのではないかという、新たな恐怖を与えるように」(河合隼雄氏『宗教と科学の接点』岩波書店 七七頁)なってきており、死への恐怖が医学の発達によって、逆に強められつつあるのではないか、とも考えられるからである。
 
  では本教において死はどのように考えられているのであろうか。
      『教典』とおさしづに、
 ・・・・身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもの・・・(七十頁)
     ・・古着脱ぎ捨てて新たまるだけ・・・
                              M26.6.12
と明示されるように、本教では死は肉体の単なる終わりではなく、この世で再び肉体を借りるために再出発すること、「出直」と教えられる。
 
 ところでこの「出直」は一般には直接に死と結びつかず、最初から改めてやり直すこと[この意味は「こころえちがいはでなおしや」(六下り八ツ)に含まれると思われるが、ここでは省いて考える]を意味するので、本教の用例は他に例をみないのであるが、「出直」が教語として死を意味するようになったのは、みかぐらうた、おさしづ(ここには「出直」は数例しかなく、生まれ更わりが圧倒的に多い)に「出直」の語があるにもかかわらず、決して古いことではない。おふでさきでは「出直」はなく、そのかわりに「しりぞく」、「むかいとり」、「てばなれ」、「かやし」等が使われ、またこふき本にも「はてる」、「クレル(崩れる)」、「しぼす(死亡)」等しか見られない。一体いつから「出直」が死の意味で使われるようになったのか。
 
 これについては教内において定説がなく、その詮索はあまり意味がないと思う。われわれにとって重要なことは「出直」をどのようにうけとめ、日々の生き方に映していくかであろう。では「出直」の教理はわれわれに何を教えるのか、またそれにまつわる問題は何か、を以下において考えてみたい。

 さて「出直」とは、
     ・・人間というは一代と思うたら違う。生まれ更わりあるで。・・・(M39.3.28

に示される生まれ更わりと同義であるが、この生まれ更わりの事実は、神の存在と同じく経験をこえた形而上的なものであるから、理論的には肯定も否定もできない。従って科学的に証明できず、信じるよりほかないものである。

 なるほど岡部金治郎氏のような科学者による推理科学的(氏によると自然科学の成果を重視しながら、自然科学の水準からある程度飛躍した仮定をおいて考えること)な次のような証明も考えられるかもしれない。
 
 『人間死ねば、肉体は、もちろん滅亡してしまうが、しかし主体である魂の核は、単に状態が変わるだけである。すなわち活性状態から非活性状態に変わるだけであって、魂の核は生き通しのものであろう。・・・魂の核は生き通しのものだから、いつまでも熟睡が続けられるものではなく、いつかは、肉体に宿って、熟睡から醒め、活性状態になろう。つまり、いわゆる「生まれかわり」の可能性があることになろう。』(『人間は死んだらこうなるだろう』第三文明社 五七~五八頁)
 
 しかしこの説も魂の不滅、生まれ更わりの可能性を示唆する程度で、証明といえるもの
ではないと思われる。
 
 またトランスパーソナル(超個)心理学において、キューブラ・ロス等によって死後の生が単なる信、神話の対象としてではなく、科学知の対象として強調されたり、レイモンド・ムーディによって瀕死体験や医学的に死と判定された人の奇跡的な蘇生の具体的な事例がうんざりするくらいに多く紹介(『かいまみた死後の世界』レイモンド・A・ムーディ・Jr著 中山善之訳 評論社 参照)されたりしているが、これも人間は死によって無に帰すのではなく、死後の世界があることを暗示する程度で、生まれ更わりの事実を積極的に論証するようなものではない。

 「出直」、「生まれ更わり」とは結局信じるより他ないものであるが、このことは「出直」が非現実的で、事実に基づかないもの、不確かなもの、信憑性のないものであるということではない。
 
 河合隼雄氏の「科学者はアイ・ノウ(I know)といっていたけれども、それはそれほど確かなことではなく実はアイ・ビリーブ(I believe)なのではないかと考えられます。自然科学というのは絶対性を誇ってきたけれども、そうではなくて、一種のパラダイム、いわゆる自然科学的パラダイムによって世界を見ているというわけです。パラダイムが換われば、違うことがみえるということがある。
 
 つまりいままでアイ・ノウと思っていた人たちも、実際はビリーブにかなり規則付けられているのであり、アイ・ビリーブといっていた人も、実はまだまだアイ・ノウといえることがたくさんあるわけです。」(『G—TEN』天理教やまと文化会議編 第9号48頁)との指摘をまつまでもなく、信は相対的に過ぎない科学知と同じ地位、否むしろそれを基礎付ける地位にあって、積極的な価値をもつのである。

 科学哲学者のカール・ポパーは、科学の定義とは反証可能性、つまり常に反証ができることと考えましたが、これは科学による決定的な証明は永遠にできないこと、科学的真理とは所詮仮説に過ぎないこと意味します。(『99.9%は仮説』竹内薫著 光文社新書参照)

 従って、科学的に証明されないから価値がない、根拠がなく間違っているということは決して言えないのである。

2014年5月1日木曜日

No.102 教理随想(53) 陽気ぐらし(1)

 今回は「月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」(『教典』25ページ)という意味深長な文章を味わってみたいと思う。
 
まず「混沌たる様を味気なく思召し」人間を創造した、という箇所であるが、これは如何なる意味をもつのであろうか。
 一見すると「味気な」い、つまらない、面白くない、という偶然的な気まぐれから、人間が造られたように受け取れるが、決してそうではない。絶対者である親神が、泥海ばかりではつまらないから、という余りにも人間的な動機で、人間を創造するはずがないからである。
 
 そこで明治16年本の「神の古記」(中山正善著『こふきの研究』)をみてみると、「月日りよにんばかりでわ、神とゆうてうやまうものなし、なにのたのしみもなく、人げんをこんしらえ そのうえせかいをこしらえ、しゆごふさせば、にんげんわちよほ(重宝)なるもので、よふきゆさんを見て、そのたなにごともみられること」とあり、ここでは「神とゆうてうやまうもの」がないから、人間を創造した、と述べられている。
 
 つまり「味気ない」ということは「神とゆうてうやまうもの」がないこと、神を敬うことのできる主体者、自由をもった存在がないことを意味しているのである。
 したがってこの世の元初まりは泥海で、混沌としていて、そこには秩序もなく、物も何もないから味気ないというよりも、もっと端的に自由なる主体としての存在者がいないことが、味気ないことの理由であると理解されねばならない。
 
 ここでいよいよ人間創造となるのであるが、この創造は決して偶然的なものではない。「ともに楽しもうと思いつかれた」は、一見ある時偶然に思いついたように思えるが、そうではない。
 
 諸井慶徳氏が「神はただ即自的存在者たる限りにおいては、如何にその全一性を有し、根源性を保ち得ても、ついに神たるべき能動性を全うし得ない」(著作集第六巻114ページ)、「神は神たる存在に止まらず、神たるべき存在にならなければならない。神は神としての立場に安んぜず、神とされる立場に移らざるを得ない」(同書、115ページ)(極めて難解な表現であるが、神はいかに全知全能であっても、神だけでは全能性を全うできず、神とは独立の主体を必要とし、神とされる必要があるということ)と述べているように、あくまで必然的な展開なのである。
 
 ヘーゲルは、その弁証法論理において、即自から対自、さらに即自且対自への必然的移行を説いているが、ここでは神による人間創造であり、その展開は必然的なのである。
 次に「その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもう」の部分を検討してみよう。
 
 まず陽気ぐらしという人間創造の目的であるが、従来の宗教における創造説話においては、本教のように、はっきりとした人間創造の目的をもつものはない。
 『ムック天理』第二号「人間創造」には、世界各地の民族神話における人間、世界の創造が十七種類と、キリスト教の創世記が紹介されているが、そのいずれにも、何のために人間が創造されたのかという目的は示されていない。
 
 中国の神話には、女神が「さびしさ」から人間を造った、またミクロネシアの神話には同じように「一人でいることが空しい」からと記されているが、いずれも人間創造の単なる動機に他ならず「陽気ぐらし」というような積極的な目的は見当たらない。
 
 キリスト教においても「われわれのかたちに、われわれにかたどって人間を造り、これに海の魚とそらの鳥と、地のすべての獣と、家畜と、地のすべてのはうものを治めさせよう」(「創世記」)とあるだけで、何のために、は全く示されていない。
 
 本教においては「陽気ぐらし」という人間創造の目的は、
       月日にわにんげんはじめかけたのわ 
       よふきゆさんがみたいゆへから
               (十四,25)
にもみられるように、はっきりと示されているのであるが、このことは極めて画期的なことであり、この意味は深いといえる。
 
 なぜなら古来人間は、一体何のために生まれ、存在するのかという第一義的な疑問をたえず投げかけ、現代においても悩み続けているのであるが、この疑問、難問に人間の親なる神がはっきりと解答を出されたからである。
 
 仏教においては、生老病死一切皆苦と説かれ、生きていることそのことが苦痛とされ、この世からの逃避が強調され、またキリスト教においても、この世を苦の世界とみなし、あの世、彼岸をむなしく志向させるだけで、いずれも人間にこの世における生命を真に全うさせることができない。
 
 しかし本教では人間創造の目的が示され、この世で陽気ぐらしができることを教えられ、悩み、抗争にあえぐ世界の人々に、生きる希望を与えることになる。
 
 次に「陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもう」の箇所を見てみよう。
 ここで見落としてはならないことは、陽気ぐらしを「させる」ではなく、「する」のを見てとなっている点である。「させる」であれば、それは使役で、人間に自由がなく、ちょうど操り人形を扱うようにして、陽気ぐらしを実現するのであるが、それでは人間を造った意味がない。そうであればいかに人間と世界を造ったとしても、そこには親神しかなく、神は依然として「即自的存在者」に他ならず、また「味気なく思召す」ことになるからである。
 
 ところでよく、もし神がいるのなら、なぜこの世に諸悪がはびこり、抗争や戦争などの不幸が存在するのか、という一見もっともと思える疑問がだされるが、この問いは、自由という人間にとって貴重なもの、人間存在の根拠でもあるものをわすれる点で成立しない。
 
 なぜならもし人間に自由がなく、悪(といっても普通の意味ではなく、親神の思いに反する心)への傾向がないならば、人間は善のみを行なう自動機械のようなものになってしまい、そこには親神の意志しかないことになり、楽しみはないからである。
 
 真の楽しみは、他の自由なる主体がいてはじめて成立するからである。親神が自由をもたない人間を造り、それを操って陽気ぐらしを実現しても何の楽しみがあろうか。そのような問いを発するひとは、自分から自由をとってもらい、神の操り人形になることを望むようなものである。
 
 このように考えるとき、「させる」ではなく「する」となっていることが、いかにありがたいことかわかるのではないだろうか。
 親神はいつまでも気長く、子供であるわれわれが親の心を悟り、自発的に「陽気ぐらし」をするのを見て、ともに楽しむ、つまり神人和楽の世界を待ち望んでいるのである。


2014年4月2日水曜日

No.101 教理随想(52) 家族の絆(3)

清水 うちは上の子には小さいころからぜんぜんお小遣いもあげずに、買い与えたりもしませんでした。何か物を買うときも親の思いを通してたので、もう結婚してるのですが、いまだに買い物に行っても悩んで迷ってなかなか買えないって、この前一番上の娘に愚痴られたんですよ。

 でも衝動買いとかはしないので、かわいそうな反面安心感はあります。けっこうリサイクルショップとか利用したり、お友達同士で回したりして上手にやりくりしているみたいで。
 下の子が、新しく出たゲームをほしがっていたんですけれど、ありがたいことに即完売で、どこにも売ってなかったんです。そうこうしているときにうちの子が池中先生の子供さんに鼓笛で会ったときに「どうせすぐに飽きるよ、またすぐに新しいのが出るで」ってアドバイスをもらったんです。そしたら「私もそう思うわ」ってコロッと変わっていて、ゲームを買うことをあきらめてくれたんです。

池中 私も子供のときは何も買ってもらえなかったのですけれど、それでよかったなあ、親が徳積みしてくれていたんだなあと思えます。当時もらったスカートをずっと同じものをはいていたのですが、あんまり嫌やから自分ではさみでスカートを切ったんです。
 そして「お母さんこのスカート破れたからもう着られへんわ」と言ったら、次の日ちゃんと縫われていました。お母さんのほうが一枚上手だったんです。でもそれだけのことを今自分の子供になかなかできないんですね。やっぱり甘いなあと思いますね。

司会 結論として、お道を信仰している私たちができること、私たちがしなければいけないことは何でしょうか。

池中 よく会社などで「ほうれんそう」という言葉が使われていますが、報告、連絡、相談という意味で「ほうれんそう」をしっかりすることが大切と聞きますが、家庭の中でも「ほうれんそう」をしっかりしなければいけないと思います。

子供がまだ小さいうちは目の届く範囲にいるので何をやっているのかすぐに分かりますが、大きくなるにつれてそれぞれの行動範囲も広くなって、帰ってくる時間もばらばらだし、どこで何をやっているのか把握できなくなってくると思うので、いちいち聞くと嫌がるかもしれませんが、「今日どうやった?」「何時に帰ってくるの?」「これはどう思う?」など、家庭の中でもコミュニケーションをしっかり取ることで家族の絆も深まるのではないでしょうか。

清水 奈良の放火殺人の事件を聞いたときに、放火した子がかわいそうに思えたんですね、あの子は居場所がなかったんだってすごく感じたんです。それぞれどの子にも居場所が必要なんだ。学校でも、家でも、またそれ以外でもどこかに居場所があれば生きていけると聞いたことがあるんですが、あの事件を起こした子にはどこにも居場所がなかったんじゃないかってすごく思いました。

うちの子が学校でトラブルがあったときには、鼓笛隊という居場所があって仲間に支えてもらえたから乗り越えられたんだと思うんです。今は兄弟の少ない子も多いので、子供の友達とか遊びにきたときには鼓笛隊に誘っているんです。そうやってよその子供さんにもなるべくたくさん居場所をつくってあげられればいいと思います。

村上 おふでさきに、
                    せんしょうのいんねんよせてしゅごする
                    これはまつだいしかとおさまる
                              (1、74)と教示されています。
このおふでさきは一般的に結婚に関するおふでさきと解釈されていますが、すべての人間関係に関するものだと私は思います。夫婦、親子というのは同じいんねんではないと思うんです。
           おふでさきにも、
              おやこでもふう~~のなかもきよたいも 
              みなめへ~~に心ちがうで
                 (5,8)
とあるようにみな微妙に違っているんですが、それぞれのいんねんを納消するのにいちばんいい組み合わせになっていると思うんです。

 お互いが神様が選ばれたベストの組み合わせなんだということ。今の親子関係は親分子分みたいになっているように思えます。それは本当の親子関係ではない。子供というのは神様からお預かりしているものである、そういうふうな思いで子供を丹精させてもらう。その中に自分が親として成人させてもらえるのではないでしょうか。


司会 みなさん本日はありがとうございました。

No.100 教理随想(51) 家族の絆(2)

司会 ずいぶん古いデータですが、職場での事故の原因の90%は家庭の不和だという調査結果があるんです。このことからも家庭の治まりというものは本当に大事だと分かると思いますが、子供の前で夫婦げんかをしたり、子供さんに自分の弱いところは見せますか。また子育てで気をつけていることなど教えてください。

村上 最近は本当に離婚している家庭が多いですね。父性は規律を教える。母性は優しく抱きかかえる。たとえ夫婦が揃っていても両方が父性の厳しさだけを子供に教えるとそれは親心になっていないと思う。女性だからといって父性がないわけではない。だから母子家庭でも父性と母性をもって育てれば母親1人でも子供は育つ、反対に両親が揃っていても父性と母性の役割分担ができていなければ子供はちゃんと育たないと思います。

池中 うちは夫婦げんかというものはほとんどしませんね。自分が子供のころに親がけんかしているのを見たときにいちばん寂しい気持ちになったので、子供の前では特にしません。特に繕ってるわけでもない。うちの場合は先ほど村上先生がおっしゃてたように父性も母性も会長さんがやってくれるので(笑)、私は何もしていません。

 それから、なかなか自分の子供を褒めてやるというのができないんですよね。しかってばっかりで。押さえつけていたかなと思う。人の子には良く頑張ったねって言ってあげられるのになんで自分の子にはそれが言えないのかなって。 それと陰口はいけないなと思います。子供は聞いているんですよね。「おかあさん、あんなこと言ってたで」とかぽろっと言われるとドキッとしますね。本当に子供って親の言っていることをしっかり聞いてますね、顔色もよく見ていますしね。

清水 子供が大きくなってきて、子育ての方針がこんなに違うんだというのが出てきました。 上2人の子供にはとにかく厳しくしないといけないと思っていたのですが、やっぱり反発があって、子供の意見も聞いてあげないといけないということに気がつきました。ですから子供の様子や学校であったことなどを聞くようにしています。
以前下の子のクラスが学級崩壊のようになったことがあってうちの子にも影響があったときにも早く気がつけたのでなんとか乗り切ることができたことがありました。

子供が全部私たち親に話してくれたのでよかったのです。学校にいる時にストレスをためていたので、家では励ましてあげていて、今はいいクラスに恵まれているようで、今ではそういう悩みを抱えている友達に自分の経験からアドバイスしてあげたりしているみたいです。身近でやっぱりそういうことがあるんですね。聞いていたら今の小学生は忙しいんですね。おけいこ事とかでストレスがたまってそれが人に攻撃的になる原因なのかな。

司会 よその子を叱れますか?

池中 なかなかできないですね。そこまで親身になれてないのですかね。

清水 普段から知っている子ならまだいいのですがどういう子かまったく分からない子にはやっぱり言えないですね。以前に上の子が中学生のときにちょっと学校が荒れてて、学校の外で中学生が悪いことしてても注意しなくていいですと先生から言われて、でも目に余ったら警察に電話してくださいと言われたことがあって、それが心に残ってて、もし注意して危害を加えられたらどうしようとかいう心配もあってなかなか言えないですね。

村上 昔は先生というものはとても怖い存在だったんです。だから親も子供が悪いことをしたら親も怒るけれども、先生に怒ってもらっていたんですね。今は親が怒れないんですね、もし子供が目に余るようなことで他人が注意したらその子の親は普通なら感謝しなければならないところが逆に注意してくれた人に怒ってしまうわけです。

司会 この前にいわゆる大阪のおばちゃんに出会って、ものすごく感動した話を聞いたんです。
 それは自分の子供が小さいときの話で、誕生日に手帳を買ってあげたんですって、するとその手帳を近所の子供がすごく気に入って、黙って持って帰ってしまったんです。それに気がついたその子供の親が謝罪の電話してきたそうです。「うちの子が手帳を持って帰ってきてしまった申し訳ないです」と。
 
それに対しておばちゃんは何て言ったかというと、「今すぐ子供を連れて謝りにきてくれ」と言ったそうです。そしてすぐに手帳を持って子供を連れて謝りにきたそうです。そのおばちゃんを見るやいなや玄関先で土下座して謝ったそうです。
そこでおばちゃんは子供に何て言ったか「あんたは自分のお母さんにこんな姿をさせて平気でいられるのか。あんたのしたことでお母さんはこんなに恥をさらしているんだ。二度としたらあかんで」と懇々と言い聞かせて、そして三人手をとって泣いたっていうんですね。
 
池中 すばらしいですね。子供が万引きして親が謝りにいって逆にお店の人に「お金払ったらいいんやろ!」と居直ったりすることがよく見受けられるけど、そうじゃなくてこの場合自分の子もそうだし人の子も同じような思いで間違ったことをその場で正す、自分の子も人の子も同じ感覚でしておられることがすごいことだなと思いますね。
それが今なくなってきて人は人、自分は自分と希薄な人間関係が問題になっていますよね。私たちはよふぼくなのですからこのおばちゃんに負けないように頑張らないといけませんね。

村上 子供もそうですけれど、まず親がなってないから、その親を何とかしなければいけないと思いますね。しつけはいくらでもつけられると思うんです。
私たち家族が教会を出て泉北ニュータウンへ移ったころ、子供たちは五歳、三歳、一歳だったのですが、子供たちにまず物の不自由さに耐えさせようと思い、朝食は端パンにしました。子供に物を与えるときに必ず理由付けするんです。端パンというものは食パンの端で栄養がここに集中しているんだよ、と。そして絶えず「もったいない、もったいない」と言い続けました。
すると子供たちも学校やよそでも、もったいないと自然と言うようになりました。しかし、不自由もやりすぎるといけないんですね。私たちが子供のときと同じようにやってしまうと、ついてこれなくなりますからね。そして子供には親の思いを押し付けたりせずに、しっかりと意見も聞いてあげることが大切ですね。


No.99 教理随想(50) 家族の絆(1)

『躍動の泉』平成18年12月号 座談会 テーマ「家族の絆」を考える
メンバー 
村上道昭(56歳、二男一女の父) 
清水みどり(46歳、一男三女の母) 
池中揚子(43歳、三男二女の母) 
司会:和田幸晴(45歳、三女の父)

リード文
今日現在、家族の絆が薄れてきているように思います。そのなかでいろんな悲惨な事件、痛ましい事件が、身近なところでも起こっています。そういう世の中を見て、多くの方が不安な気持ちを抱いているのではないでしょうか。そこでわたしたちお道の者として、この世相をどう見るか、いかにして陽気ぐらしに近づけていけるのかを考えてみたいと思います。

司会 まずはじめに、幸せな家庭とはどんな家庭でしょうか。そして今なぜ多くの家庭で治まりをみないのか。家庭というのは子供にとってどういうものなのかを考えてみたいと思います。

池中 家庭というのは子供にとって安心していられる場所であるべきだと思います。私が子供のころは家に帰ってきたらすごくほっとしたんです。だから自分の子供が学校など外から帰ってきたら、ほっとする、安心できる場所であるように心がけています。

清水 それぞれの家庭でいろいろ事情があるから一概には言えないと思いますが、私はやっぱり両親が揃っているということが子供にとっていちばん幸せだと思います。
私は子供のころによく教会に行ってたんですが、何人かの住み込みの方がいて、お父さんがいない人がいたんです。ある人に「あんたは幸せよ。お父さんがいるんだから」と言われたことがあって、そのときは分からなかったのですが、あとになって本当にそうだなと思いました。

親の愛情というのは底知れないものがあるじゃないですか。いつも子供のことを思っているんですよね。その愛情というのは本当の親子じゃないとなかなか子供にも伝わらないと思うのです。
 私が子供のときも両親とも働いているから、あまりかまってくれないんです。でも愛情というのはどっかに自分の中にあったんですね。

司会 最近では奈良の田原本で起きた放火殺人事件が記憶に新しいかと思うのですが、家庭内の殺人事件が最近よく起こっています。なぜ子供は親を殺すのでしょうか。どうすればそれを未然に防げるのでしょうか。またどこにその問題があると考えますか。

村上 子供が親を殺す原因は根が深く、特定するのは難しいですが、背景として最近の子供は自然と接する機会が少なく、ゲームの世界と現実との区別がつかず、命の重みが感じられないことがあるように思います。
 
また、教育の問題もあると思います。昭和40年以降「道徳」にかわって「にんげん」、「人権」が教えられるようになりました。責任をともなわない自由、義務を忘れた権利のみが主張され、子供を甘やかす家庭が増えてきたことも、このような事件の背景としてあるように想います。
 
奈良の田原本町で放火殺人を犯した高校一年生は、事件後「もう一度人生をやりなおしたかった」といって自分の犯した事の重大性を感じていません。親の高学歴イコール幸せな人生という価値観を一方的に押し付けられ、ストレスがたまり、とりかえしのつかない事件を起こしたわけですが、なぜ放火殺人なのか、家出とか他の方法もあったのではないか、と考えますと理解に苦しみます。

 親と子供のどちらが悪い、社会が悪いという次元では捉えることのできない問題だと思います。
 教理的にいいますと、おさしづに、
  ……小人々々は十五才までは親の心通りの守護と聞かし、十五才以上は皆めん/\の心通りや。……
(明治21830日)
また、
  「小人の処、前生一人一人持ち越しという理がある。」
(明治22年1月11日)
とはっきりと前生持ち越しということを教えられています。殺人をするというのは根が深いと思うのです。
ただ単に環境だけではなく、信仰的に考えますと前生持越しとかまたいんねんとかそういう問題になってくる、だから同じような環境、同じような人間関係であっても殺人事件など起こらない場合と、殺人事件に発展する場合とがありますね。
 
だから殺人を犯す原因というものは、前生のいんねんとかそこまで掘り下げないと、殺人を犯した子供の動機とか、心理的な原因とか、また社会的な背景とか、そういう次元では解決できない、原因は分からないと思います。

 昔と今の子を比べたときに信仰を抜きにしても、たとえば昔は手伝いをするのが当たり前でしたが、今は便利になって家事とか炊事の手伝いをするのが当たり前でなくなってきている、昔は手伝いは当然子供がしなければならないことだった。いわれなくても自然とできることだった。
今は子供が家庭でしなければならないことといえば勉強とかになっている。親も手伝いをしてくれるよりも勉強をしてほしいとおもっていますね。

 社会の問題として考えると親子の間で価値観が違ってきている。昔は物の不自由なときは物質的に恵まれることが目標で経済力を付けるために学歴を身に付けた。高学歴→高収入→物質的に恵まれるイコールそれが幸せの方程式だった。
それが今の30歳以下の若い世代は生まれたときから物に恵まれていて、そういうようなことは目標でなくなってきている。親は物の豊かさを求めたが、今の子は心の豊かさを求めている。そこに親と子で求めている根本的な価値観にずれがあります。ストレスがたまって、そこに奈良の田原本の事件の背景みたいなものがある。今の子供は何が幸せなのか模索している状態に見えますね。


2014年3月15日土曜日

No.98  教理随想(49)  本席飯降伊蔵

飯降伊蔵さんが本席に
定まれるまで

飯降伊蔵さんは、明治20年3月25日、本席に正式に定まられます。教祖がおられる間は、神様のお話を直接聞かしていただくことができましたが、現身を隠されてからは、今度は本席を通してご神言をありがたいことに、聞かせて頂くことが出来るようになります。キリスト教、仏教では教祖、開祖の亡き後、直接の神言はなく、弟子たちが、教祖や開祖の言葉を思いだして、いろいろな福音書や経典にまとめるようになりますが、いろいろ異なった解釈を生み出す原因となり、教団が分裂していく要因となります。そのために教祖は本席を育て上げられたわけです。伊蔵さんの入信から本席になられるまでの経緯を簡単に振り返ります。

元治元年に奥さん、おさとさんの二度目の流産後の煩いをおたすけ頂いてから、明治十五年までの約20年間、伊蔵さんは朝早くから、仕事のあるときは、仕事が終わってから毎日雨の日も、風の日も、休むことなく、お屋敷に通われ、御用を続けられます。

その間、教祖から「伊蔵はん、この道はなあ、陰徳を積みなされや。人の見ている、目先でどんなに働いても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うているようでは、神様のお受け取りはありませんで。なんでも人様に礼を受けるようでは、それでその徳が勘定ずみになるのやで」とお仕込みさますと、早速に実行され、夜中、家路を急ぎながらも、こわれた橋を見つけると修理をし、もぐらが穴を開けて水漏れしていれば、だれの田もおかまいなく、これをつくろったりされたそうです。
そしてそのことが村人の知れるところとなりますと、「困ったことになったわい」と嘆いておられたようです。

また「理を立てて身が立つ。必ず人様を立てるようにして自分は上がらぬようにせよ。よしや人々より立てられる身となっても、高い心を使わぬようにすることが肝要である。十人の上に立てられたならば、十人の上に立って、十人の上の仕事はしていても、その心は十人の一番下に置くように。千人万人の上に立てられた場合も同様、その心は千人万人の一番下に置くようにせよ。」と諭されますと。道を通るときも、誰かれなく自分のほうから先に挨拶をされ、墓地への参拝のときも、道端の乞食にも挨拶をされ、その前を通られたそうです。
 
 教祖は伊蔵さんを、入信前から本席として定めることを予定されておられたように思います。
 元治元年教祖は「大工がでてくる。でてくる」と予言され、伊蔵さんが五月にお屋敷にこられると、「さあさあ、待っていた、待っていた」と仰せられ、おたすけされます。
 同年十月つとめ場所の棟上式の翌日、大和神社のふしがあります。それまでついてきていた信者はほとんど離れてしまいますが、伊蔵さんだけは一人残られ、後始末と内造りを続けられます。
 
 その後三年ほど、伊蔵さんはお屋敷に常詰めされ、これより九年間は、忙しい大晦日には、自分の家はさておき、決まってお屋敷の掃除をし、祭壇を整え、迎春準備をすませたうえで、帰宅、明けて正月には誰よりも先に、お参りされたそうです。
 
 二代真柱様は『ひとことはなし』の中で、「この九年の勤め、只一人でのつとめ、一筋心に親神様にお仕えされたそのうちに、後年本席としての理をつまれたものと悟られます」と述べられています。
「丸九年という~~。年々大晦日という。その日の心、一日の日誰も出てくる者も無かった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、ついてきてくれたと喜んだ日もある。これ放って置けるか。それより万事委せると言うたる」(M34,5,25)
ここに伊蔵さんへの全幅の信頼が感じられます。

 伊蔵さんは教祖のお言葉には絶対に服従で、素直についてこられますが、慶応年間とも明治元年のころともいわれる「お屋敷に入り込め」とのお言葉だけは、なぜか聞いておられません。
 
 つとめ場所の内造りのころ、夫婦ともども子供がまだなく、身軽だったこともあって、三ヶ月間、お屋敷に住み込まれますが、すでに子供三人、弟子一人を含め、六人が住み込む余裕はない、との人間思案、おはるさんのご主人、梶本惣治郎さんの「行ってもよかろうが、今のお屋敷の状態では、さしずめ食うに困るやろ」と意見、また村人の「金が要ればだしてやる。家が狭ければ普請の材木もだしてやるから、あんなところにはいきなさんな。どうでも行くというなら、乞食する覚悟でいきなはれ」と助言等によって躊躇をせざるをえなかったようです。
 
 それでも教祖は気長に辛抱強く待ち続けられますが、明治十四年、いよいよ時が熟してきます。
 伊蔵さんは仕事中、どうしたはずみか足を踏み外して腰を抜かす、次女のまさえは風眼(?)、長男政甚は口がきけない、という節をみせられます。
 そこで伊蔵さんも、いよいよ決断され、まず明治十四年九月、おさとは、まさえと政甚を連れて、つづいて明治十五年3月、伊蔵さんは長女よしえを連れて、お屋敷にに移り住まれることとなります。伊蔵さん五十才、おさと四十九才のときです。
 
お屋敷では伊蔵さんは、すでに年切り質からかえっていた、お屋敷の田畑にでて、慣れない野良仕事をされます。夜なべには、内職にお社造りをされ、子供の養育費にあてられたようです。有形無形の苦労がつづきますが、しかし教祖から「さぞつらかろうが、もうしばらくであるほどに、気を長く持って、堪忍なされや」、「これまでの苦労の理は、一夜の間にも取り返してみせる。子供のことは何も思うやないで」と諭され、それに勇気付けられ日々を通られます。
 
 明治十五年十一月九日、伊蔵さんは弟子が宿屋の寄留届けをおこたったことを理由に、奈良監獄署に十日間拘留されることになります。これも神様からのためしのように思われます。

 伊蔵さんは元治元年に夫婦そろって扇と御幣のさづけを頂き、明治八年ごろ、言上のさづけを頂かれます。
 
 さらに十三年、「ほこりの仕事場」と称されるようになります。これは人間の事情に対処する立場で、「若き神」といわれた、こかん様が、明治八年に出直されてからは、教祖はよく、「ほこりの事は仕事場に回れ」といわれ、伊蔵さんに任されたようです。
 
 明治二十年正月から、教祖のご気分すぐれなくなられますが、そのとき、「伊蔵さんに扇を持ってもらってくれ」指図されたとも語り伝えられています。
 教祖が現身をかくされたとき、御休息所の教祖の休んでおられた次の間に控え、のち一同を前に内蔵の二階で現身おかくしの神意が明かされることになります。

 明治二十年二月二十三日、教祖のご葬祭が盛大に万余の参列者が押し寄せる中、執行されます。そのときの指図は伊蔵さんに伺われたようです。
 
  三月四日「刻限御話」がでます。
「さあ~~身の内にどんな障りがついても、これはという事がありても、案じるではない。神が入り込み、皆為すことや」
 三月十一日、伊蔵さんは昼食のあと、身体のだるさ、悪寒を訴えます。
「額から玉のような汗がでて、汗が飴か納豆のように、ふくたびに糸を引く。顔は引付をおこしたようだった。」と言われています。また、あばら骨がブギブギと大きな音を立てて、一本一本、右のほうから、左のほうからおれていく。すると今度はおれた骨が一本一本、元にもどっていく、という不思議な現象がおこり、その音はそばで見守る者の耳まで届いたといわれています。
 
 十一日から二十五日までの十五日間に三十一回にわたって、「刻限御話」がだされます。
 三月十七日午後七時の刻限御話、
「さあ~~今までというは、仕事場は、ほこりだらけでどうもならん。さあ~~これからは綾錦の仕事場。(中略)さあ、すっきりとした仕事場にするのやで。綾錦の仕事場にするのやで。」
 
 このお話から伊蔵さんの半月に渡る身上を通してのお仕込みは、これまでの「ほこりの仕事場」から「綾錦の仕事場」へのしこしらえのためのものであったことが分かります。

 三月二十五日午前五時半の刻限御話、
「・・・神というものは、難儀さそう、困らそうという神はでて居んで。・・・それ故渡すものが渡されんだが、残念情なさ、残念の中の残念という。・・・さあ返答はどうじゃ。無理にどうせと言わん。」これにたして「いかにも承知致しました」と答えると、続いて「・・・やりたいものが沢山にありながら、今までの仕事場では、渡した処が、今までの昵懇の中であるが故に、心安い間柄で渡したように思うであろう。この渡しものというは、天のあたえで、それに区別がある。・・・さあ~~本席と承知がでけたか~~~。さあ、一体承知か。」
 これにたいして初代真柱様より「飯降伊蔵の身上差し上げ、妻子は私引き受け、本席と承知」と申し上げられ、ここに神の思し召しによって「本席」と正式に定まられることになったわけです。
 「やりたいもの」、「天のあたえ」とは言うまでもなく、おさづけのことで、おさづけを渡される立場が、「綾錦の仕事場」ということなります。
 これより二十年間、刻限と伺いにたいする、おさしづと、さづけが本席を通して私たちに渡されることになります。
 本席は明治四十年六月九日正午ごろ、七十五才で出直しになられます。