2011年12月25日日曜日

No.64 教理随想(15) 「ふし」の意味(5)

ところで「たんのう」には諦めや忍耐、我慢にはない楽しみ、喜びが要素としてあり、「ふし」、成ってくることが楽しみとうけとられるのであるが、、一体なぜであろうか。
 なぜなら「ふし」は先にみたように親心の現われであるから、と教えられるが、では親心の現われとは何を意味するのであろうか。
 まず第一に「ふし」が先にみたように、親神による人間の心のほこりのそうじであることと考えられる。

 ほこりの教えは、ともすると仏教の宿業やキリスト教の原罪にくらべて浅薄にうけとられ、心のほこりは信仰によって簡単に払われ、救済にあずかることができると楽天的に考えられやすいが、決してそんな生易しいものではない。
 『教祖伝逸話篇』(130、小さな埃は)の中の
「どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。」
との教祖のお言葉は、「新建ちの家」を成人した人、悟りを開いた人、解脱した人と解し、「目張り」することを世間を離れて出家することと理解すると、人間はいかなる人も、この世に生きる限り、ほこりを積まないことは不可能で、ほこりのそうじを忘れると、多くのほこりをつむことを教えるが、間接的には宿業、原罪にも匹敵するくらいのほこりの多さ、ほこりの根強さを教えるものであるといえよう。[「わしでもなあ、かうして、べつまへだてて居れば、ほこりはつかせんで。けれども、一寸、台所へ出ると、やっぱり埃がついてなあ」、「わしは懺悔する事はないといへば、いきはないものやで」『正文遺韻抄』152頁』との教祖のお言葉も同じ意味をもつと思われる。]
 
また本教においては「生まれ更わり」が説かれ、この世一代だけではなく、前生、前々生、さらにはそれ以前の過去生におけるほこりまで問題とされるので尚更である。
 親神は人間のこの心のほこりを、つとめとさづけ、人だすけを通して、人間が自分で払うことを望まれるが、たとえそのようにしても、ほこりの量はあまりにも多く、今生一代ではとても払いきれないので、人間を何度も生まれかわらせ、「ふし」によって親神が強制的にほこりのそうじをし、「ふし」通して人間が自分でほこりのそうじの続きをするように急き込むのではないだろうか。

     ・・たんのうは前生いんねんのさんげ・・・
           (補遺 M30,11,19)
と諭されるが、これはしたがって「たんのう」とは、「ふし」を親神による人間の心のほこりのそうじと喜んでうけとめ、これからは自分でほこりのそうじをすることを決意するという意味であり、この点において「たんのう」が単なる満足ではない、と考えることができるのではないかと思われる。

 第二の意味として、「ふし」を大難を小難にして見せてくださることと考えられる。
 このことは分かりやすく説明すると、今仮にほこりを数量化して、十のほこりが残っているときに、親神は全部のほこりのそうじを、一度の「ふし」によって(もしそうなら人間はとっくに生存を許されていないであろう)するのではなく、十のうち例えば二、三のほこりのそうじを、いくつかの小さな「ふし」を通してするようにしてくださる、だから「ふし」が有り難いということである。

したがって「大難小難の道」(M23,10,20
とは、信仰によって大難を小難ですましてもらうということではなく、親神が大難によって強制的にほこりをそうじするのではなく、小難によるそうじですまし、残りのそうじを人間に委ねるという親神の親心のあふれる、お計らいという意味であると思われる。

2011年12月18日日曜日

No.63  教理随想(14) 「ふし」の意味(4)


 次に本教における「ふし」に対する心の治め方である「たんのう」を検討してみよう。
 さて「たんのう」とは、
     ・・たんのう無くして、受け取る処一つ無いで。・・・・   M20,3,25

     ・・・たんのうが神が好く。受け取る。・・・
          (補遺 M20
を引用するまでもなく、信仰のすべてを生かす点睛として、われわれに要請される大切な教理であり、
「単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ころうとも、その中に親心を悟って、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。」(『教典』75~76頁)と説明されるが、この「たんのう」は仏教やキリスト教における「ふし」の受け止め方とは根本的に異なるものである。

 原始仏教における四諦説をみてみよう。
四諦の第一は苦諦で、この世の一切が生老病死の四苦や愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦(色、受、想、行、識の五つの要素で構成されている人間存在そのものが苦しみであること)等の苦しみに満ちていることを教え、第二の集諦では苦の原因として貪りの心、欲望があげられる。第三滅諦、第四の道諦において、欲望を八正道の修行の実践によって、滅すれば苦がなくなり、涅槃とよばれる理想的な状態に入ることが出来ると説かれる。

 そしてこれを達成することが、仏教の究極の目的と考えられるのであるが、この四諦説においては、苦を受け止めるというより、苦からの脱却(生が苦、人間存在そのものが苦であることからわかるように、現実を離れた観念やあの世、彼岸への)が空しく説かれるだけで、そこには「たんのう」の大切な要素である、喜びや勇みは全くみられない。
 また仏教における自業自得を説く業思想や因果応報説においては、先にみたように、悪果や苦難は、どうすることもできない宿命として盲目的に正当化されたり、単に諦念や忍耐、辛抱によって受け取られざるをえないであろう。

 次にキリスト教の「ふし」の受け止め方をみてみよう。
 キリスト教においては、神は愛といわれるものの、人間にとって絶対の他者、人間と質的に区別された近づきがたい存在、畏れ崇められるべき存在で、苦難を含めてわれわれの未来は神の手にあり、神の神秘に属するものと考えられている。
 したがって苦難の原因、意味も神の神秘に属し、それの詮索は人間の理解をこえているので、わからないのは当然で、わかろうとすること自体間違っていることとされる。そしてあえてその意味を尋ねても、せいぜい神はある人を選び、その人をよりよくするため、完成させるために、苦しみや悩みを与えるとの、曖昧な答えがあるだけで、なぜその人が選ばれたのか、なぜある特定の苦しみがあたえられるのかについては全くわからない。

 旧約聖書の「ヨブ記」をみてみよう。
 カルデアのある町に、ヨブという神を恐れ、神の前に正しい義人が、ある日突然、様々な災いに見舞われ、重い皮膚病にもかかり、神に見放されたようになる。ヨブがこれまでに犯した罪を考えあぐねていると、あるとき友人が「神は人間をよりよくするために苦しみ、悩みを与えられる」と助言する。また最後に神はヨブに「あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。あなたはわたしを非とし、自分を是とするのか」(40章8)と述べ、結局苦難の原因を一切教えないまま、ヨブに元の繁栄を返して、140才までの命を与える。
 苦難を含めて一切のものは、神の神秘に属しているということである。
 
新約聖書についても同じことである。
 キリスト教の精神を最もよく示す言葉は「汝の敵を愛せ」(マタイ5章)で、その具体的な行為が「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けてやりなさい」、「下着を取ろうとする者には、上着もあたえてやりなさい」(マタイ5章)等であるが、これもなぜ頬を打たれたり、下着をとられるのか、の説明はなく、また左の頬を向け、上着を与えることがなぜ神の思召しにかなうことで、それがなぜ「天にいますあなた方の父の子となるためである」(マタイ5章)のか全くわからない。

 左の頬を向け、上着を与えるのは、いま我慢しておけば、あとで神からより多くの報酬がもらえることを期待するからであろうか。
「自分で復讐しないで、むしろ神の怒りに任せなさい。『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。」‘(ローマ人への手紙12章)こんな言葉を聞くと、心のやすらぎどころか、全く反対に空恐ろしさすら感じるのではないだろうか。
 
キリスト教で人間は苦難に出会って、それはあなたをより強く、よりよくさせる試練だから耐えなさい、といわれて心の底から納得して耐えられるであろうか。
 なるほど耐える、耐えないは自分の意志、自力によるのではなく、神の力によってであるから、神の力、恩寵さえあれば無理ではない、との考えもあるかもしれない。しかしそこには「たんのう」にみられる、楽しみ、喜び、勇みはどこにもない。

 この楽しみや勇みは他者からの働きかけや出来事によって条件反射的に生じるものではなく、その働きかけ、出来事の意味、道理がわかることによって生じるものであるならば、キリスト教のように苦難の意味が単に人をよりよくするため、としてしか示されないところには楽しみ、勇みがなく、あの世での救いに意味を見出し、そこでの救いをより強く求めさせたり、逆にその反動として、この世の生により執着させて、快楽主義に走らせたり、神秘主義にのめりこませたりすることになるのでないかと思われる。

2011年12月11日日曜日

No.62  教理随想(13) 「ふし」の意味(3)


「結構や、結構や」(『教祖伝逸話篇』二十一)
を見てみよう。
 これは山中忠七が入信して五年後に、持山が崩れ、大木が埋没し、田地が土砂に埋まるという大被害をうけたとき、教祖から「さあ~~、結構や、結構や。海のどん底まで流れて届いたから、後は結構やで」と諭されるという逸話で大難を小難にしていただいたことが結構である、と理解されているが、それだけではなく、大被害をうける「ふし」によって、ほこりのそうじをしていただいているので有り難い、結構である、ということを教える逸話としても見ることが出来ると思われる。また、
・・・ずつない事は「ふし」、「ふし」から芽を吹く。やれ「ふし」や~~、楽しみや、
大き心を持ってくれ。・・・・
M27,3,5
     ・・怖わい中にうまい事がある。・・・
                  M29,4,21
     ・・やれ怖わい恐ろしいという中に、楽しみ一つの理がある程に~~~。・・・・
                (M29,4,25
等に明示されているように、「ふし」が「楽しみ」、「うまい事」であるのも、「ふし」が親神によるほこりのそうじであるという観点から理解できるのではないかと思われる。

 ところで病はまた、神の「ざ(ん)ねん」
、「りいふく」[「やまいでわない をやのさねんや」(十四,77)「やまいでハない 神のりいふく」(一,32)]とも教示されているが、これはどのような意味であろうか。
 けふの日ハどのよな事もつんできた
 神のさんねんはらすみていよ
           (十七、33)
・・・残念の理程怖いものは無いで。残念の理一代で行かにゃ二代、二代で行かにゃ三代、切るに切られんいんねん付けてある。これは退くに退かれん理によって。なれど神に切る神は無い。・・・     (M24,1,28
等の神言は、神の残念が一見すると、キリスト教における神の怒り[「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ、3,36)]と同じものとして、うけとられるかもしれないが、神の残念と怒りとは決然と区別される。

 なぜなら神の怒りにおいては、神は「切る神」で、愛が神の本来的なわざであるのにたいして、怒りは神の非本来的なわざ、あってはならないもので、怒りによって人間は救いをしりぞけられ、切り捨てられる。 
 しかし神の残念においては、

 月日にもざねんりいふくはらしたら
 あとハめづらしみちをつけるで
          (十三,36)
 このさきのみちをたのしめ一れつわ
 神のさんねんはらしたるなら
          (十二、72)
と教えられるように、残念をはらすことは救済の間接的な条件、いわば親心の発現で、むしろなくてはならないものなのである。
 ではなぜ残念と言われるのであろうか。
 たん~~とふでにしらしてあるけれど
 さとりないのが神のざんねん
            (四,47)
 この事ハたれでもしらぬ事やから
 むねがわからん月日さんねん
           (七,44)
そばなるにいかほど月日たのんでも
 きゝわけがないなんとさんねん
           (九,41)
等における残念は明らかに人間に向けられているが、
 とのよふなせつない事がありてもな
 やまいでわないをやのさねんや
          (十四、77)
の残念は親神に向けられ、立教以来人間に、たすけ一条の道として、つとめとさづけを教え、それによって人間が自発的に心のほこりをそうじして、たすけられることを期待してきたのに、期待をはずされ、親神が人間に代わって「ふし」を通してやむを得ず、強制的にそうじをしなければならないということ、それが残念であるということではないだろうか。
 
したがって立腹も親神に向けられて、自発的にそうじをするように人間を思うように成人させられない自分に腹が立つということになるのではないだろうか。
 おふでさきの中で、残念という言葉は全部で九十五回、最後の十七号においては十五回、五首に一回の割ででてきて、神の残念の思いは、
 この心神のざんねんをもてくれ
  どふむなんともゆうにゆハれん
         (十七,70)
と言われるまで昂じてくるが、この残念も単に人間にたいする思いで、人間が神の言うことを聞かない、信じないことや、人間の成人の鈍さにたいする思いと考えるとき、残念の外への表現である「かやし」、「ふし」は心得違いにたいする罰や神の怒りと同じもので、親心の発現とはおよそ縁のないものになってしまうのではないかと思われる。

 しかし残念とは単に人間に向かうものであるのみならず、親神にも向かい、自分で心のほこりをそうじしようとしない人間に代わって、そうじをしてやらなければならないことに対する思いであると考えることによって、「かやし」、「ふし」が親心の発現で、それゆえにわれわれにとっては有り難いご守護でもあることが理解されるのでないかと思われる。

2011年12月3日土曜日

No.61 教理随想(12) 「ふし」の意味(2)

次に陽気ぐらしの教理に基づく「ふし」にたいする見方をみてみよう。
 この見方はいんねんの教理に基づく見方とは逆に、未来から現在を見て、「ふし」を人間をたすけたい、陽気ぐらしをさせたいという親神の思い、親心の現われとしてうけとる見方である。

 おふでさきには「みちをせ」(道教え)、「てびき」、「ていり」(手入れ)、「せきこみ」、「よふむき」(用向き)、「をもわく」等の言葉が数多く見られるが、これらはいずれも「ふし」を意味し、「ふし」は人間創造の目的である陽気ぐらし、たすけが将来において実現されるための手段とみなされる。
 したがって「ふし」は罰のような悪しきもの、人間にとってあってほしくないものではなく、陽気ぐらし、たすけの実現のためには、むしろなくてはならないものとして積極的な意義をもつようになる。

 このことは次のおふでさきから、はっきり理解されるであろう。
 にち~~にをやのしやんとゆうものわ
 たすけるもよふばかりをもてる
           (十四,35)
 それしらすみなせかいぢうハ一れつに  
 なんとあしきのよふにをもふて
            (十四,36)
(後者のお歌の「あしきのよふにをもふ」ものとは、親神の教えという漠然としたものではなく、親神が「ふし」を通してたすけを急き込んでいるのに、教えがわからない者は、その「ふし」を悪しきものとうけとっていると解される。)

 ところでこのような見方は、いんねんの教理に基づく見方が過去志向的で、暗く悲愴なひびきをもつのにたいして、明るく、将来に向かって生きる勇気をふるいおこさせるが、この未来―現在の見方も一面的であるため、この見方だけでは、いんねんの教理が軽視され、現実を遊離した軽薄な信仰になったり、陽気ぐらしも単に「ふし」のない状態というように表面的にしか理解されず、「ふし」と陽気ぐらしが切り離され、外的にしか結びつかないという問題が生じてくる。

「ふし」と陽気ぐらしとは、究極的には陽気ぐらしは「やますしなずによハらん」、「せかいよのなかところはんじよ」といわれるように、「ふし」のない状態となるが、今の成人段階では両者は相互否定の相容れない関係ではない。

 それでは「ふし」と陽気ぐらしとはどのように結びつくのか。また「ふし」は親神が人間を「たすけるもよふ」で、たすけに結びついているものであるなら、いったいどのような意味で結びついているのであろうか。
 「ふし」を過去、未来からではなく、現在、「ふし」の根底に立脚して考えるとき、「ふし」を与えられること自体どのような意味をもつのであろうか。次にこのような問題を考えてみよう。

 おふでさきに、
 このよふにやまいとゆうてないほどに
 みのうちさハりみなしやんせよ(三,23)
と教示されている。また、
 なにゝてもやまいいたみハさらになし
 神のせきこみてびきなるそや
(二、7)
 このそふぢむつかし事であるけれど
 やまいとゆうわないとゆておく
(四、109)
とも述べられているが、これは一体どのような意味であろうか。

 教内においては「病とは人間の心得違いを知らせ、それを改めさせる手段に過ぎず、神のほうから見れば本来ないものである」とか「病とは実体のない影のようなもので、常に親神に向かっているとなくなる、気にならなくなるものである」等の解釈があります。
 これでは「病とは心一つの持ちようによって、各自が感じているに過ぎない虚像のようなもの」ということになってしまいます。
 もしこのような意味であるなら、病は単に否定的な、あってほしくないもの、ということになるでしょう。

 ではどのように考えればいいのか。
 「やまいとゆうわない」とは、そのような病という現象の有無という意味ではなく、病の意味に関することで、病はこれまで考えられてきたような悪しきもの、たすけと相容れないものではなく、それは「親神がほおきとなって、銘々の胸を」掃除される篤い親心のあらわれ」(『天理教教典』69頁)であること、つまり病とは親神によるいわば強制的な心のほこりのそうじであり、間接的なたすけでもあることを意味しているのではないだろうか。
(「病んで果たす者もある」(M33,7,25)にみられる「果たす」は、したがって親神による心のほこりのそうじと理解される)
 次のおふでさきの意味を考えてみよう。
 このかやしみへたるならばどこまでも
   むねのそふぢがひとりでけるで
(十六,16)

このお歌はふつう、「心通りが現れればどうして澄み切るのか。それは、心の汚れが分かるから掃除するのであって、それを気づかせてくださり、どうでも掃除をせずにおれぬようにしてくださる」と解釈されるが、この解釈では、あくまで人間がそうじをすることになり、掃除が「ひとりでける」ことにならないのではないか。
 親神にとっての「むねのそふぢ」とは、人間のとっての心のそうじ、心を澄み切らせることと同じような、現実、実在と直接結びつかないものではなく、
 にち~~にむねのそふぢにかゝりたら
 どんなものでもかなうものなし
           (十二,73)
 このそふぢどふゆう事にをもうかな
 月日たいないみな入こむで
           (十二、74)
 このよふをはじめたをやか入こめば 
 どんな事をばするやしれんで
           (十五,61)
からわかるように、現実にある出来事が生起してくることであるから、「ひとりでける」とは、心通り現れてくることが、直接的に親神によるそうじである、と考えられるのではないか。

 もしこのように考えることができるなら、このことは単に身上についてのみならず、事情についても当てはまり、事情もまた親神による心のほこりのそうじと考えることができるであろう。

2011年11月27日日曜日

No.60 教理随想(11) 「ふし」の意味(1)



 古今東西を問わず人間の一生とは、ほとんど例外なく病気、事情をはじめとする様々な「ふし」の生滅と継起の過程にほかならず、人間である限り、それを避けることはできない。しかも一寸先は闇といわれるように、「ふし」の多くは当人の予想の範囲外で、予期なり覚悟をしたうえで出会う「ふし」というものは、はなはだ少ない。

 そこで「ふし」の意味、「ふし」からの解放が宗教に求められ、これまで種々の考え方が示されてきたが、日本においては、長い間
主として祟りの信仰の観点から「ふし」がとらえられ、外から憑き物、怪物がついたり、悪霊、怨霊が祟ったり、先祖の霊の不十分な供養が病気、不幸の原因であるから、それらの除霊、浄霊等によって苦悩から解放されると説かれる。
 しかしこのような見方は本教においては、   このよふにかまいつきものばけものも 
かならすあるとさらにをもうな
(十四、16)
     ・・憑きもの化けもの、心の理が化けるで。・・・      (M25,4,19
と断言されているように、きっぱりと否定され、「ふし」にたいして全く異なった見方が教示されている。
 では本教において病気、事情等の「ふし」とは教理的にどのような意味をもつのであろうか。以下において考えてみたい。

 さて本教における「ふし」にたいするこれまでの見方には、大別すると過去から現在を見る、いんねんの教理に基づくものと、未来から現在を見る、陽気ぐらしの教理に基づくものがあり、昭和二十四年の『天理教教典』いわゆる復元教典の公布以後、前者の見方から後者の見方に重点が移されるようになったが、この二つの見方はともに「ふし」にはなくてはならない大切な見方で、両者は相補的な関係にあると考えられる。

 まず前者のいんねんの教理に基づく「ふし」にたいする見方をみてみよう。
 この見方はいまさら説明する必要もないくらいに長い間、われわれが慣らされている見方で、「ふし」を与えられたときに、「OOOの身上、事情は、OOOのいんねんが原因である」、「OOOのふしは過去の悪しき心遣いによって生じてくる」というように、いんねんを機械必然的な因果律や因果応報的に理解して、「ふし」に条件反射的に適用していくものである。

 確かにおさしづを見ると、
・・・どうなるもいんねん、こうなるもいんねん・・・       ‘(M27,3,6
・・・見るもいんねん、聞くもいんねん。・・事情はいんねんという。・・(M23,9,27
・・・いんねん遁れようと思うても遁れられ   
ん・・・・(M23,5,26
等々と教示され、いんねんを因果応報的にうけとるとき、一見過去における悪因と現在の悪果、「ふし」との結びつきは絶対的で、いささかの遺漏もないように思われるが、しかし悪因と悪果とをいんねんによって機械的、必然的に結びつけるだけであるなら、いんねんにいかに華美な装飾をほどこしても、「ふし」は過去の行い、心づかいの報い、罰と同じものになってしまうであろう。

 なるほどいんねんの教理には、先述の祟り信仰と根本的に異なり、人間一人ひとりの自由な心づかいにすべての責任を負わせる、個人の主体性と人格性とを尊重する教理であり、いんねんの徹底的な自覚によって思い切って道一条に入らせたり、一切なってくることを我が責任として受け止める、たんのうに徹した人々を多く生み出してきたことは事実である。

 しかし反面ではいんねんは原罪や宿業と同じようなものとして受け取られ、人々を罪人扱いしていずませたり、また単なる責め道具や成ってきた現実に対する説明不足を正当化するための逃げ口上や、こじつけとして安易に使われてきたこともまた事実である。
 なぜならいんねんによってこれまで「ふし」における過去ー現在の一面だけが照射され、不当に強調されてきたからである。

 しかしこのことは「ふし」を考えるときに、いんねんの教理はもはや不要であるとか、過去の心づかいの反省は必要がない、ということでは決してない。
     ・人が障りあればあれほこりやと言う。どうも情無い。・・(M22,10,9
     ・身の内苦しんで居る処を見て尋ねるは、辛度の上に辛度を掛けるようなもの。・・
             (M25,11,19

 この二つのおさしづの意味は、「ふし」をみせられている者にたいして、ほこりやいんねんの教理を振り回して、過去の悪しき心づかいを詮索するようなことをしてはいけない、と考えることができ、一見「ふし」と、ほこり、いんねんの教理の結びつきが否定されているように思えるが、そうではなく、ほこりやいんねんの教理は、相手を責める道具ではなく、あくまで自分の心づかいを反省するためにあることや、「ふし」における過去―現在の一面にのみとらわれ、他の面を忘れてはいけない、という意味であると思われる。

 病のさとしについて考えてみると、病のさとしは過去の悪しき心づかいと病気との因果関係に焦点があるのではなく、病を台にして心の入れ替えをすることに焦点がある、とよく言われるが、これは過去の心づかいと病気との間に、OOO病はOOOの心づかいが原因であうというような公式的、一義的な関係はないということで、過去の心づかいと病気は全く無関係ということではないと思う。

 どのよふないたみなやみもでけものや
 ねつもくだりもみなほこりやで
             (四、110)
 せかいぢうどこものとハゆハんでな
 心ほこりみにさハりつく
 (五,9)
 この二つのおふでさきからはっきりわかるように、過去の心づかいと「ふし」との結びつきは絶対的であるが、問題は過去の心づかい、ほこりと「ふし」との関係(これについては後述)で、これが単に悪因と悪果として因果応報的にとらえられるとき、「ふし」は報い、罰と同じようなものとして忌避されるか、我慢、忍耐、諦め等によってうけいれられるにすぎないと思われる。(「ふし」に対する過去―現在の見方の一つとして、盗んだから、盗まれる、殺したから殺されるという通り返しがよく言われるが、通り返しという言葉は原典のどこにもないので、決して使うべきではない)

2011年11月20日日曜日

No.59 教理随想(10) 出直し(10) (完)

 次にキリスト教における死と救済について考えてみよう。
 先に少し触れたようにキリスト教では、死は生の終わりではなく、イエスが十字架の死の三日後に復活したように、人間も死後、肉体とは異なる新しいからだを与えられ、復活すると教えられるが、この復活は死後すぐにではなく、この世の終わりにおいてであると考えられている。

 この世の終わりの前兆は、戦争や飢餓、地震、迫害、偽キリストの横行等で、その後本物のキリストが再び地上に再臨し、イエス以後死んだ人々も生き返り、最後の審判をうけ、その審判により、天国、地獄のどちらに送られるかが決定する。

 そして天国に送られた者は、神とともに永遠の至福(この世にあったときと同じように働き、学び、遊ぶといった様々な楽しみを、完成した形で味わう、と現代の神学者によって考えられているが、あくまでこの世の彼岸においてである)を、また地獄に送られた者は、永遠の罰、絶対に釈放されないいわば終身刑の報いを受けることになる。
 これがキリスト教の終末観、救済観であるが、ここにおいては一回きりの現世での行為の善悪が、情け容赦なく厳しく裁かれるだけで、神の救済の力によって引きあげられるということが全くない。

 なるほどイエスの十字架上の死によって、すべての人間の罪が人間に代わって贖われ、それによって人類の罪が許され、罪の結果である死も克服されたと教えられるが、人間の死のあとにまっているのは、この世の終わりでの復活と審判で、そこで義とされた者のみ救われるならば、イエスの贖罪と愛とは一体何を意味するのであろうか。厳正な審判と神の愛とはどう結びつくのであろうか。

 ところでカトリックには煉獄の教えがあるが、これについてはどうであろうか。
 この煉獄の考えは、大多数の人間は天国に入るほど完全でもなく、地獄に落ちるには善人でありすぎるので、天国と地獄の中間にある煉獄において、一時的に火にもやして苦しみを味わわせ、天国に入れるだけの完全さを備えさせた上で、天国に入れようとするもので、一見神の力による引き上げがあるようにみえるが、これも地獄を天国に近づけ、地獄をいわば終身刑から有期刑に軽減するだけで、神の救済による引き上げとは決して言いがたいと思われる。 

 では本教の「出直」における「親神の救済の力による引き上げ」とは何を意味するのであろうか。
 「出直す」という言葉は、一般に最初からやり直すという意味だけではなく、何か不都合な場面を一度はなれ、考え方、態度を改めて、心機一転して再びその場面にもどることを意味するが、このことは「出直」について考えると、「出直」そのものによって、魂のほこりの一部が払われて、生まれかわってくることを意味するのであろうか。

 この点について北村光氏は「出直」における「魂の浄化作用」(『G-TEN』6号41頁)という考えを示し、それを次のように説明している。
 「出直し」は「人類が永遠に続く為にも欠かせない問題」であり、
・・・出直すことがなかったら、一方的に人間は流れていくことになり、それは、やがて人類の滅亡を意味する。例えば、いじめる者といじめられる者、勝つ者と負ける者、親と子、上と下等々。この状態が、永遠に続くとしたら、一方的なものである。(41頁)


 しかし「出直」によって配役がかえられ、例えば親不孝の者は、今度は親に捨てられ、親がいてくれたらなあと思い続ける、親不孝の「心使いのよごれを、自然に払える環境、境遇、立場を与えられる。(中略」これが親神様の慈悲なのだ。しかも、そこには永遠に人類が存続し得られる理があると思う。)(42頁)

 ここでの「出直」による境遇、立場、配役等の転換については、その考えに賛成したいが、はたしてそれらの転換そのものが、魂を浄化し、魂のほこりを一部払ってくれるのか、については疑問が残る。
 「魂が白紙(白因縁)に戻るためにも、『出直』さねばならないのである」(41頁)は、「出直」そのものが、「魂の浄化作用」をもつとも、「出直」して境遇を転換されて生まれかわってから、魂が浄化されるとも解釈され、氏は前者の解釈をとっているようであるが、後者の解釈のほうが正しいのではないだろうか。

 つまり「出直」そのものによって、魂のほこりの一部が払われるのではなく、「出直」によって、ほこりの払いにくい境遇から、ほこりの払いやすい境遇へと転換されて生まれかわり、その境遇においての具体的、自覚的な通り方や種々の節を通して、ほこりが払われていくのではないだろうか。

 もしこのように考えることができるのなら、「出直」における「親神の救済の力による引き上げ」とは、親神が人間に代わってほこりを払ってくれるというようなものではなく、あくまで配役をかえたり、ほこりを払いやすい境遇へと生まれ変わらせることで、ほこりを払うことは、人間の主体性にゆだねられていると考えられるのである。
・・・月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。・・(M25,1,13
というおさしづは、われわれに勇気を与えるとともに、反面では厳しさをも教えるが、また「平均勘定」はこの世において具体的な形で示されることや、「出直」による借金の棒引きのようなものはないことをも教えるものであると思う。

 本教の救済は、「出直」、生まれかわりを前提とする、この世における現実的なものであり、主体性、心の自由を極めて重視するが、これらの点に他宗との根本的な相違があるように思われる。
 また本教のような「出直」、生まれかわりの教えが今求められていると思うのである。
             (完)

2011年11月15日火曜日

No.58 教理随想(9) 出直し(9)

ところで「やまずしなすによハらすに」の中の「しなす」とは、仏教における解脱、もはや生まれかわりのない永生とおなじようなものなのだろうか。少し検討してみよう。

 まず仏教、キリスト教の不死についてみると、仏教ではこの世は一切皆苦で、解脱によって迷妄他律の此岸をこえ、彼岸の自律、自由の世界、涅槃の境地、もはや生老病死の苦のない不死の世界に入ると考えられているが、この彼岸とはあの世、あるいは肉体を遊離した精神の世界に他ならないから、死の真の超越にはならないと思われる。

  キリスト教においても同様で、この世は罪と死の世界で、ここを脱し、天国において永遠の生命を得ることが説かれるから、不死といっても、この世でないところに求められる。
 したがって死の超越は、キリスト教、仏教においては、あの世、あるいはこの世においては精神の中でのみ、なされる非現実的、抽象的なものにすぎないと思われる。
 では本教において「しなす」、不死とはどのように考えられるのか。
 たすけでもあしきなをするまでやない 
    めづらしたすけをもているから
(十七,52)
 このたすけどふゆう事にをもうかな
    やますしなすによハりなきよに
          (十七、53)
 このおふでさきから、不死は「めづらしたすけ」によって実現することが分かるが、このたすけは単に病気を治したりするようなたすけではない、と教えられることから考えると、人間の魂は生き通しであるから、人間は不死であるとの解釈や、いんねんのままに生き、死んでいくのを死ぬといい、少しでもいんねんを納消して出直すことが「死なず」に通じる等の見方は十分でないと思われる。

 それでは人間は百十五才まで生きられる素質があるので、百十五才までに出直すことが死ぬで、それ以上生きる場合は「死なず」になるのであろうか。
 『おふでさき通訳』では「死なず」は「若死にしない」こととして、また『おふでさき講義』では、百十五才までに出直さないことと解釈されているが、今の段階では百十五才以上の寿命(現在において一部実現されている)と「めずらしたすけ」とは必ずしも結びついていないので、そのような解釈も十分ではないように思われる。
 そののちハやまずしなすによハらすに   こころしたにいつまでもいよ
(四,37)
のおふでさきから次のようなことが言えるのではないか。
 「心したいに」いつまでも寿命を与えていただけるということは、出直しもまた心次第であるということ、つまり「もう百十五才もはるかにすぎたので、この辺で出直しさせてもらおう」と思うと、その願いを即座にかなえてもらい、出直す月日、時間や、場所や生まれ変わるところまで分かるようになったり、指定できるようになることが「死なず」の意味ではないだろうか。(尾崎栄治著『しあわせを呼ぶ心』284~285頁参照)

 もしこのように考えられるのなら、「死なず」とは、これまでの人間のように、死の時期、原因も一切分からず、死にたいする恐怖を持って出直すという絶対的他律としての死ではなく、いわば相対的自律としての死を迎えることができるようになるであろう。

 そしてそのような死において彼岸における死の超越ではなく、此岸における死の超越が可能になるのではないだろうか。
この此岸における死の超越といっても、単に肉体から遊離された精神において(この場合は超越といっても死からの逃避にすぎず、死に対する恐怖は依然として残っている)ではなく、まさしく肉体における超越であるが、このような死を迎えられるとき、われわれはもはや不安や恐怖もなく、むしろ喜び、安堵を感じるのではないだろうか。

「めづらしたすけ」によって、以上のような極楽が具体的に実現されるのであるが、このような極楽は、われわれが生まれかわり出かわりする中に、われわれが生かされている大恩を人救けによって報じ、心をすみきらせる努力によって、たとえその道がいかに遠くとも絶望することなく、実現しなければならないものである。

 したがって「死んで天国へ」というような甘えや、生まれかわり出変わりから脱して、永遠の世界に生きるというような夢想は絶対に許されないといえよう。

 最後に「出直」と救済の問題について考えてみよう。
 中島秀夫氏は「出直」と輪廻を比較して、
     ・・「出直」は、ややもすると、死と再生の生命サイクルと同日に論じられたりするが、もとより、それとは異なる。ましてや、輪廻の思想とは明確に区別されなければならない。たしかに、それは反復、円環の運動で説明しうる理論的条件をもっている。しかし、それは単なる反復や同一地平での円環運動ではなくて、いつも親神の救済の力によって引き上げられつつ、螺旋状に上昇する円環運動の線で説明されるべき内容を包み持っている・・・(『G-TEN』6号13頁)
と述べているが、親神の力によって「引き上げられる」とは一体どのような意味を持つのであろうか。

 まずニーチェの永遠の回帰の思想を一瞥してみよう。
 ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、
     ・・一切の事物が永遠に回帰し、わたしたち自身もそれにつれて回帰するということ、わたしたちはすでに無限の回数にわたって存在していたのであり、一切の事物もわたしたちとともに存在していたということです。・・・(岩波文庫[]138頁)
という一見輪廻と同じような永遠回帰を教えるのであるが、それは、
     ・・わたしはふたたび来る。この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。新しい人生、もしくはよりよい人生、もしくは似た人生にもどってくるのではない。わたしは、永遠にくりかえして、細大洩らさず、そっくりそのままの人生にもどってくるのだ。・・・(同書139頁)
からわかるように、現在と全く同一の人生が無限にくりかえされる「単なる反復や同一地平での円環運動」にほかならず、「出直」の円環運動とは異なるものである。そこには救済の要素が全くない。

2011年11月10日木曜日

No.57 教理随想(8) 出直し(8)


 次にキリスト教の天国、仏教の極楽と本教の「ごくらく」との相違について少しみてみよう。
 一九八六年十一月一日、和歌山で新興宗教「真理の友教会」の女性信者七人が、前日病死した教祖の後を追って、集団で焼身自殺をした。この種の事件は海外では、1978年十一月に、南米ガイアナで九一四人にも上る「人民寺院」の集団自殺はあっても、日本では戦後はじめてであるので、関係者のみならず、一般の人にもショックを与えたのであるが、この事件を聞いたとき、まず感じたことは、女性の集団自殺という悲惨さというよりは、教祖の「死ねば天国にいける」との教えを盲信し、天寿を全うするのではなく、自ら死を選んでその教えを実行した驚きである。彼女らが信じたように、天国は死の向こう側にあるものだろうか。

 まずキリスト教の天国について少しみてみよう。
 さて一般に天国というと死後の世界と考えられているが、キリスト教においては必ずしもそうとは言えない。なぜなら「天国」(Kingdom of Heaven)という呼称は、マタイ伝に一回でてくるだけで、あとは全て「神の国」(Kingdom of  God)と表記され、神の国はユダヤ教によると、国、領域というよりは、神の支配の意味で、神が統治者としてこの地上にこの地上に君臨すること、あるいは神の意志を地上に実現することが天国にほかならず、キリスト教もこの考えをうけついでいるからである。

 天国とは神の国、神の支配で、単なる彼岸、あの世ではなく、この世的、現在的でもあるから・・・「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』といえるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」
(ルカ十七,20~21)
とイエスは教えるのであろう。

 イエスにとって、神の国はすでに時がみちて、現在すでに到来しているのであるが、しかし神の国の実現は阻止されていて、まだ完成していない。その完成はこの世の終わり(これについては、この世の発展完成で、あくまでこの世においてという解釈と、いったんこの世が終わり否定されて別の世界においてという二つの解釈が考えられるが、キリスト教ではふつう後者の解釈がとられる)においてで、それが完成するとき、神に忠実な者は復活し、神の国に入るとされる。そしてこの神の国の完成が、一般に天国と考えられ、この世の彼岸に存在すると信じられているのである。

 このようにキリスト教においては天国は、神の国、神の支配の意味で、この世的、現在的な要素をもつが、神の国完成としての彼岸的天国の面がつよいために、「死んで天国にいく」という俗信を生じさせることになるのであろう。

 では仏教においてはどのように考えられているのであろうか。
 キリスト教の天国に相当するものは、仏教では極楽であると考えられているが、厳密に言うと正しくない。キリスト教の神の国に対して、仏教では仏の国、仏国土(一人の仏が教化する領域のこと)、または浄土(煩悩やけがれのない浄らかな土地)とよばれるが、キリスト教は唯一絶対神で、神の国はひとつしかないのに、仏教では仏が無数にあるために、それぞれの仏が自分の仏国土、浄土をもっている。われわれの住む世界は釈迦仏の教化する仏国土であるが、残念なことにこの世界は、人間の煩悩、けがれなどに満ちているために穢土とよばれている。

 浄土とは、このようなけがれのなくなった世界にほかならず、わが国では阿弥陀仏の極楽浄土があまりにも有名なために、極楽イコール浄土と考えられ、天国と極楽が結び付けられるのである。

 ところで仏教には、この浄土とは別に天上界がある。天上界とは先に見た輪廻の六道のうち天人の住む世界であるが、仏教では天人といえども、非常に長い寿命は保証されるけれども、いつかは死に、再び六道をめぐらねばならないので、天上界は天国と同じように考えられない。天国に相当するものは、輪廻の輪の外にある永遠の世界である浄土なのである。

 ところでこの浄土は、キリスト教の天国と同じく死後の世界、あるいは西方十万億の仏国土を過ぎたかなたにある、と記述されるように、この世にあらざる別世界で、死後往生するところとふつう考えられるが、これは浄土の一面で、われわれが浄土を築いていかなければならないという考え方もあるようである。
この考えによると、浄土を築くことは、自利利他の修行に励むことによって心のけがれをとり、心を浄めていくことであるから、浄土はこの世的な面をもつことになる。
 しかし仏教の浄土も、キリスト教の天国と同じく、結局はこの世の彼岸にあるもの、死後の抽象的な世界、あるいはこの世における短に霊的な世界と主として考えられ、この点に本教との相違がある。

 では本教ではどのように考えられているのであろうか。
 極楽という言葉が、みかぐらうたに、
  ここはこのよのごくらくや   
わしもはや~~まゐりたい
(四下り九つ)
よくにきりないどろみづや
こゝろすみきれごくらくや
(十下り四つ)
と二例[おさしづには「極楽世界」(M26,2,26
「極楽やしき」(M31,9,25)がみられる]だけでてくるが、ここから分かることは、極楽はあくまでこの世(「ここ」とは教祖のおられるお屋敷、ぢばを指すが、後者のお歌からは必ずしも場所的に限定されず、この世のどこにおいてもと考えられる)にあり、心をすみきらせることによって実現されるということである。

 また本教においては、極楽が単にこの世で、と指示されるだけではなく、その姿が次のように具体的に示されている。
だん~~と心いさんでくるならバ
  せかいよのなかところはんじよ
(一,9)  このたすけ百十五才ぢよみよと
  さだめつけたい神の一ぢよ
(三,100)  そのゝちハやまずしなすによハらすに
  心したいにいつまでもいよ
(四、37)  またゝすけりうけ一れつどこまでも
いつもほふさくをしえたいから
(十二、96

 「雨は六さい(六日)夜々降り、風は五日に、働きは半日」(尾崎栄治氏『しあわせを呼ぶ心』294頁)
 「こふお(子を)ほしいと思ひバ、何時成共。男子と思へバ、男子。むすめの子と思へバ、女子。」(『根のある花・山田伊八郎』70頁)等々である。

2011年11月4日金曜日

No.56 教理随想(7) 出直し(7)

ころでこのような輪廻観は、天台宗の教義である「十界互具」(六道に仏、菩薩、縁覚、声聞の四つを加えた十界のひとつひとつに十界があるという考えで、人間の中にも仏と地獄が共存しているとみなされる)の思想と同じく、六道、十界のそれぞれを独立して客観的に存在すると考えず、人間の心のあり方とみなすので、現代人にとってもうけいれやすいが、しかしこの輪廻観では、現世のことのみが問題とされるので、当然生まれかわりは軽視されるか、否定されることになってしまう。
 
このことは禅宗においても同じである。道元の死生観をみてみよう。
 さて一般に西洋では、体が滅しても魂は永遠不滅と考え、精神優位の立場に立って、心身や主客の二元論を主張する傾向が強いのであるが、このような考えは心身一如の立場に立つ禅宗からは「身滅心常」として否定される。
 禅では「不生不滅」(宇宙の元素の離合集散によって、われわれの身体や物体が生じたり、滅するにすぎないこと)、「永遠の今」の立場に立つから、生死の彼岸、来世に極楽を求めるような考えは、すべて「身滅心常」の心身一如でない立場からでてくるものとして退けられる。

 道元にとっては、心身一如としてのこの人生をおいてほかに人間の生きる道はない。それゆえ苦悩多き人生そのものの真只中で、自分の足元において、極楽浄土を求めることが、人間にとって真っ正直な生き方とみなされるのである。

 このような考え方は、極楽をこの世をはなれた彼岸に求めるこれまでの見方より、はるかに現実的で、「今、ここ」の大切さを教えるので、積極的に評価されうるが、ここでも「人のしぬるのち、さらに生とならず」(『正法眼蔵』現成公案)とあるように、生まれかわりは否定されるというより、無視されてしまう。(もっとも道元は現世の行為が現世に結果をおよぼす順現報受とともに、来世、来々世に結果をおよぼす順次生受、順後次受という三時業の考え方を展開しているが、これは単に過去の影響によって現在があるという考え方でないのなら、生まれかわりを間接的に認めていると考えることが出来る)
 このようにみてくると、仏教においては輪廻は必ずしも、生まれかわりと結びつかず、また否定もされるのである。

 次にキリスト教の復活と本教の生まれかわりとの相違を考えてみよう。
キリスト教ではイエスの十字架上の死は、人類の罪をあがなう死で、このことを信じる者は神によって義と認められ、イエスと同様に死後復活すると教えられるが、この復活は矢内原忠雄氏によると次の二点で単なる霊魂不滅説とは異なると考えられている。 

 まず第一点は「霊魂不滅説では、人間は霊魂と肉体とよりなり、肉体の死後は、霊魂は自然に肉体を遊離して存在をつづけるというだけであって、そこには霊魂の救いという要素がない。だから肉体から離脱した後の霊魂の状態は、幸福なのか不幸なのか不明である。(中略)キリスト教で言う復活は、もちろん霊魂の不滅を含んでいるが、それはキリストによりて救われた霊魂であり、したがって神とともにあって神を讃美し、永遠の讃美にすむ霊魂であるがゆえに、人間の慕うべき至福の状態である。」(『キリスト教入門』103頁)

 第二点は「霊魂不滅説では霊魂の個性がはっきりせず、したがって肉体の死後における個性の生活が認められない」(103頁)
 しかし復活においては「救われた霊魂を宿すにふさわしい新しい体が与えられる」ので、これによって「救われた霊は救われた体を器として活動し、我々の個性が永遠に生きるのである」と説明されるが、「霊魂を宿すにふさわしい新しい体」といっても、この世における身体とは全く別の抽象的なものであるから、復活は単にあの世への生まれかわりであるか、あるいはこの世であっても単なる霊的な存在にすぎないということになる。

 このような復活観からは、単なる霊魂の救い、「地上における苦難は、天国における祝福」というような、この世とは別の彼岸における至福が空しく待望されるにすぎないであろう。

 最近欧米諸国において、死生観が大きく変わり、転生、生まれかわりへの関心が急激に高まりつつあるといわれている(『ムー』1990年七月号)が、転生というキリスト教の教義と相容れない思想が復権しつつあるということは、キリスト教の復活が単に霊的なものにすぎず、これによっては「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という太古以来の謎を十分に解明することができないからではないだろうか。

 これに対して本教では単なる霊魂不滅説とも異なり、
     ・・人間というものは一代と思うたら違う。生まれ更わりあるで。・・・
               (M39,3,28
と明示されるように、あくまでこの世への、新たな身体をお借りしての生まれ更わりが教えられている。

 人間とは「出直」が示すように、この世の生を終えても、この世にまた帰ってきて、この世の生をくりかえしつつ、究極の目標である陽気ぐらしを目指す、と教えられるが、このような「出直」こそ、われわれに本来的あり方を示し、人生を真に全うさせる教えである。

 なぜならこの今の生への態度には、大別すると、この生のみが強調され、それの充実のみがめざされる禅のような生き方と、今の生を仮のものとみなして、明日の生、あの世における永遠の生を求める生き方に分けられるが、前者の場合、なるほど今を大切にし、足元から離れない点において現実的ではあっても、未来の生への目標や希望の面が希薄なために、ともするとニヒリズムや神秘主義におちいったりしがちであり、また後者の場合、あの世の永生やあすの生が強調されることによって、この今の生が軽視されるか、あるいは刹那主義におちいったりして、いずれもこの今の生を真に全うさせえないからである。

     ・・世の処何遍も生まれ更わり出更わり、心通り皆映してある。・・・
                (M21,1,8
と教示されているように、「出直」はわれわれに前生、今生、来生を通して、いかなる不平等(善悪と禍福が必ずしも対応していないというような)もないことを教える、われわれに真の生きる勇気を与える教理であるとともに、反面では現実に埋没したり、そこから逃避することを許さない、あくまでも現実に立ち向かわせる厳しさをも教える教理であるといえよう。

2011年11月1日火曜日

No.55 教理随想(6) 出直し(6)

 さて教祖は晩年になられてから、「元の理」を多忙なとき、また深夜に、熱心な少数の人々を相手に繰り返し繰り返しお聞かせ下されたと伝えられているが、「動物の進歩」もこの「元の理」を念頭において話されたのではないかと考えるとき、もっと深い解釈ができるのではないか。以下において述べてみよう。
 
「人間の数について」にでてくる「いきものが出世して、人間とのぼりているものが沢山ある」、「生まれ変わるたび毎に、人間のほうへ近うなるのやで」等は、動物が人間に近づき、人間に生まれ変わることを明示しているようにみえるが、実は人間と生き物、動物の関係を示唆いるのではないかと思われる。また拡大解釈するとき、それを通して人間と自然の関係をも暗示しているように思われる。

 従来動物は、人間よりはるかに下等な生き物であり、人間にとっては単なる手段としての意義しか持たないものとみなされてきたことは、動物を意味する畜生という言葉の使われ方を一瞥するだけでも明らかであるが、教祖はこのような不遜な考え方を先のお言葉によって、まず改めさせようとされたのではないかと思う。

「いきものが出世して、人間とのぼりている」、「人間の方へ近うなる」等から、人間と生き物とは、高等、下等の区別、両者間の断絶は全くなく、人間と生き物とは連続した親しき関係にあることがわかるが、このような考え方は単に生き物を大切にしよう、との動物愛護とか、人間と動物とを同列に見る人間性軽視の考え方とかではなく、あくまで人間と生き物の本質的区別を認めつつ、両者の関係を従来の主従の関係から、正当な関係へともどす見方である。

 この点をもう少し詳しくみてみよう。
 まずキリスト教の旧約聖書の創世記をみると、「われらの像に、われらに似せて人を作ろう。そしてこれに海の魚、空の鳥、家畜、すべての野獣と、地をはうすべてのものとを従わせよう。そこで神は、人をみずからの像に創造した」という天地創造の有名な一節があるが、ここからは人間と生き物との主従関係、生き物は人間の意のままに使役されるにすぎないとの見方しかでてこない。「地をはうすべてのものを従わせよう」とは正にそのことを示している。

 キリスト教では、「われらの像に似せて」、つまり人間は神の姿に似せて(理性的で自由意志をもつものとして)創造されたとみなされ、人間の精神的、霊的側面がもっぱら強調され、身体、物質的生命は第二義的な意義しかもたないものとして考えられているのであるが、このような見方は、人間と生き物を単に主従関係においてしかみない、創世記の見方から派生してくるものであり、極論すれば現代の自然や環境の破壊の根底にある考え方であるとも言えるのではないかと思われる。

 これに対して本教の「元の理」においては、全く異なった考え方が示されている。
「五分から生まれ、五分五分と成人して八寸になった時、親神の守護によって、どろ海のなかに高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた」、「次いで五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになった」(『教典』29頁)

 ここにみられるのは、キリスト教のような、自然、環境、他の生き物がまずできて、それから人間が創造されたとの見方ではなく、人間の成人と海山、天地、世界(他の生き物を含む)の発展とが、平行して進んできたとの、従来みられない画期的な見方であるが、このような視点に立つことによって、はじめてこれまで西欧を支配してきた「人間は万物の尺度」や人間至上主義から脱却できるのではないだろうか。
また世界的な問題となっている自然や環境の破壊や異常気象の解決に向かって歩を進めることができるのではないか。

 本教において、十全の守護の説き分けは、身の内の守護と世界の守護が一対となってされているが、これも人間と世界が同じ素材から成り立ち、同じ理法によってつながっていること、同じ神の働きによって一貫していること、したがって人間も他の生き物も、親神の「懐住まい」をし、親神によって等しく生かされ、互いに有機的に連関しあっていることを間接的に教示するものであるといえよう。
 このようにみてくると、一見不可解に思える「動物の進歩」も極めて現代的な意義をもつのではないかと思われる。

 次に仏教の輪廻について、本教の生まれかわりとの相違をこれまでとは違う観点からみてみよう。
 さて輪廻とは衆生つまり生きとし生けるものが業によって生死をくりかえすことで、天上、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道をめぐると一般に考えられているが、このような輪廻観は、インド思想や仏教の一部にはみられても、仏教全体を支配する考え方ではない。

 六道、あるいは五趣(阿修羅が地獄に含まれる)の「道」、「趣」はともに、われわれが「死後に往く世界」の意で、これらはこの世とは別の死後の世界、地理的、空間的に存在する世界とみなされやすいが、仏教では本来そこまで拡大して考えられていたものではなく、人間のこの世での生存のあり方が六道、五趣としてみなされていたようである。

 この考え方では、たとえば餓鬼は飢渇に苦しむ、欲求不満のあり方として、畜生は動物
への転生ではなく、人間の殺し合い、苦しむあり方として、阿修羅は限りない戦い、怒りのあり方として、また天上はそれらの苦しみから脱してはいても、まだ迷いにあるあり方として、つまり個々人の心のうちに、身の回りに、社会において現実に展開されつつあるものとして六道輪廻が考えられるのである。
 したがって地獄も極楽浄土のように、彼岸、この世をはなれた、死後に往くところではなく、この世における人間のあり方、心の内容としてみなされることになる。

 『新仏教語散策』の地獄の項における八熱、八寒、八大地獄の詳しい説明や地獄絵図、餓鬼草子等は、それゆえに現代のわれわれにとって無縁で、非現実的なものでは決してなく、極めて現実味をおびた、鬼気迫る恐ろしさすら感じさせる「人間のあり方をありのままに映し出す鏡であり」、「すぐれた人間洞察のたまものである」(宮沢智氏『G-TEN』13号)
ということになる。

2011年10月29日土曜日

No.54 教理随想(5) 出直し(5)

 この判定を自分なりに下す前に、『おふでさき注釈』にのせられてある、牛馬にかんするお歌の実例として説かれたと言い伝えられている話をそのまま引用し吟味してみよう。

 『某女は邪険な性質で、教祖様に数々の御恩をうけながら、お屋敷の前を通っても立ち寄る事さえしなかった。それ程であるから、人々に対してもむごい心遣いが多かった。教祖様は常にそばの人々に「報恩の道を知らぬ者は、牛馬におちる」とも「牛見たようなものになる」とも仰せられた。果たして、某女は、明示七年から歩行かなわぬ病体となり、二十年間いざりのような姿で家人の厄介になってこの世を終わった』

 簡単にまとめると恩に恩が重なり、いざりとなって苦しみ、出直したということになるが、問題は「いざり」となったことの意味、その姿と牛馬とがどのように関わるかということである。
 「いざり」となったことは、単に第一段階にすぎず、来世牛馬に生まれかわって、今までのつぐない、恩返しを無理やりさせられることになるのか、あるいは「いざり」という歩行困難な姿が牛馬とみえる道、「牛見たようなもの」であり、来世も人間として生まれかわることになるのか、そのどちらであるかという点である。

 『おふでさき注釈』によると前者ということになるが、私見によると後者の意味に解するほうが本教の教理より考えて、よいのではないかと思う。
 言うまでもなく、本教教理の根幹は陽気ぐらしで、いんねんの教理も、これに基づいて考えられねばならないが、従来のいんねん論は、どちらかというと、仏教的な因果応報と同じようなものとして、したがって牛馬道も文字通り牛馬道として、忘恩の徒にたいする罰のようなものとしてみなされ、説かれてきたように思う。

 たとえば肺病の人に対しては、肺病の病気によって牛馬の先き道、来世牛馬になることを知らされているのであるから、普通の人間らしい生活を捨て、土間にむしろを敷いて寝ることによって、いんねんの納消はできる、というような諭しがなされ、それなりの布教上の効果をあげてきたと思うが、このような説き方は、本教の教理の根本から少しはずれているように思われる。

 このことは『教典』の一部が改正され、「元のいんねん」(人間は陽気ぐらしができるように創造された)が強調されるようになったことからも言えると思われる。
 「にちにちにをやのしあんとゆものわ たすけるもよふばかりをもてる」(十四、35)のお歌から、忘恩の徒の罰として牛馬に生まれかわらせて、人間に酷使されたり、食べられたりすることが、「たすけるもよふ」であり、親神の慈悲であるとはどうしても思えないのである。

 また「理はみえねど、みな帳面につけてあるもおなじこと、月々年々あまればかやす、たらねばもらう、平均勘定ちゃんとつく」(M25,1,13)の中の「たらねばもらう」には、足らねば牛馬に生まれ変わらせてでも恩報じを強制的にさせるという意味があるのかと考えると疑問に思える。このおさしづはあくまで人間に当てはまるのであれば、「たらねばもらう」には人間として生まれる中に、いろいろの節をみせられることによって、平均勘定をつけられるということではないだろうか。

 このように見てくると、牛馬道とは、牛馬そのものではなく、あくまで人間として生まれながら、牛馬のように人間的自由を失った姿で生きなければならない、という意味であり、それが牛馬そのものと受け取られたのは、本教の草創期に強かった仏教の因果応報の思想の影響によってではないかと思う。

 ところで教内には次のような出所不明の話を論拠にした牛馬論があるが信憑性は極めて少ないと思われる。
『ある日のこと、白牛がお屋敷の前を通った。教祖様はそれをご覧になって、「あれはおかのの生まれ変わりや」仰せられ、かつその牛に近寄って「お前もこれで因縁果したのや」と人に諭すが如くに優しくお話しきかせになった。その後まもなく、その白牛は死んだとの事』(この話については山澤為次氏が『復元』第三号四二頁において、作り話ではあるまいか、と述べている)

 また『天理教校論叢』第二二号に芹澤茂氏の「牛馬考」(この中で人間から牛馬への転生が論証されている)が掲載されているので興味のある方はのぞいてください。

 では諸井政一氏の『正文遺韻抄』の「動物の進歩について」の教祖のお言葉は、どのような意味をもつのだろうか。
「動物の進歩について」のポイントになる部分を引用してみよう。
 「生物は、みな人間に食べられて、おいしいなあといふて、喜んでもらふで、生まれ変わるたび毎に、人間の方へ近うなるのやで。さうやからして、どんなものでも、おいしい、おいしいと言うて、たべてやらにゃならん。なれども、牛馬といふたら、是れはたべるものやないで、人間からおちた、心のけがれたものやからなあ」

 ここには人間から牛馬、牛馬から人間への転生がはっきりと示されているのであるが、これを文字通り受け取れないとすると、一体何が意味されているのだろうか。
 まず西山輝夫氏の解釈をみてみよう。
「私たち人間は生き物を殺して食べることが許されているとはいえ、それは必ずしも無条件ではないのであります。その条件というのは、せっかく、いのちあるものを食べることを許されているのだから、そのかわり、おまえたち人間はそれに十分感謝し、それによって得られたエネルギーをもって互いに助け合って生きるように努力せよ、と親神様はいうておられるように思われます」(『ひながたを身近に』187頁)、「生き物でも何でもそれが親神様のお与えであってみれば、おいしいといって食べることが、物を生かす道であり、自分もまた生かされる道であることを知るのであります」(同頁)

 つまり西山氏によると「動物の進歩」によって、われわれが食べ物にしている生き物への恩が教えられ、その恩返しとして人救け、物を生かす道が示されている、と理解されているが、はたしてこのような意味だけであろうか。
 西山氏の解釈は、極めて常識的ですぐに思い浮かぶ解釈ではあるが、「動物の進歩」にはもっと深い意味があるのではないだろうか。

2011年10月28日金曜日

No.53  教理随想(4) 出直し(4)

さて輪廻の原義は流れること、生あるものがさまざまの形態の生をくりかえすことを古代インドにおいて意味し、それが仏教に入って具体的に五趣(天上、人間、畜生、餓鬼、地獄)あるいは六道(人間と畜生の間に阿修羅が加わる)として転生する世界が明示され、これが業の思想と結びついて、善き行いには来世での善き結果、よりすぐれた人間や天人への生まれかわり、悪しき行いには下等な人間、動物への生まれかわり等々と説かれ、人間に道徳的行為をすすめる積極的な役割とともに、宿命論という消極的な役割をもはたし
後世に至るまで多大の影響をおよぼしているのである。

この輪廻においては、輪廻の輪からの脱出、つまり解脱が人間にとって目指されるべき究極の理想であり、救済の成就と説かれる。
仏教においては、生まれかわる世界が人間界より上等の天上界であっても、それが輪廻の一部である限り、決して永遠に平安な世界ではない、と考えられているので、もはや生まれかわらないこと(生まれかわらなくなった人間は仏陀とよばれるが、それがどのような人間なのか、また生まれかわらなくなった人間はどのようになるのか、仏教において具体的に示されていない。それゆえに生死即涅槃というような考え方がでてくるのであろう)が苦からの解放であり、救済の完成ということになるが、本教においてはこの世に人間が何度も生まれかわりで出かわりしつつ、救済の目標であるこの世での陽気ぐらしに向かって成人していくと考えられている。

本教においては人間創造の目的は、この世における神人和楽の陽気ぐらしの実現であるから、生まれかわらないことが救済の成就である、と考えることは絶対にできないのである。 、

 次に輪廻においては人間から動物(畜生)への転生が説かれるが、本教においては、この問題はどのように、考えられているのだろうか。
 諸井政一著『正文遺韻抄』にのせられてある「人間の数について」を少し長いが引用して検討してみよう。

 「元は、九億九万九千九百九十九人の人数にて、中に、牛馬におちて居る者もあるなれど、此世はじめの時より後に、生き物が出世して人間とのぼりているものが沢山ある。それは、とりでも、けものでも、人間をみて、ああうらやましいものや、人間になりたいと思ふ一念より、うまれ変わり出変わりして、だんだんこうのうをつむで、そこで、天にその本心をあらわしてやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、さういふわけで、人間にひき上げてもらうたものが、沢山にあるで」(153頁)

 ここには動物から人間への進歩(?)とともに人間から動物への退歩(?)が「牛馬におちて居る者」という言葉によって示されていて、人間の数が元の子数より増えている訳が教えられているのであるが、人間が牛馬におちること、牛馬が人間に転生することは文字通りに受け取ることが果たしてできるだろうか。

 言うまでもなく引用した文章は、教祖の御言葉に基づくものであり、後世の人の作り話であるとは、まず考えられないから、問題はそれをそのまま受け取るか、あるいはたとえ話として、当時のいかなる人にもわかる話として、受け取るかであり、どちらであるかは「牛馬におちて居る者」の解釈いかんによる。
 「いままでハぎうばとゆうハままあれど あとさきしれた事ハあるまい」、「このたびハさきなる事を此のよから しらしてをくでみにさハりみよ」(五、1,2)

 この二つのおふでさきの意味は『おふでさき注釈』によると「これまでから牛馬におちる、牛馬におちると説く者もあるが、如何なる者が牛馬におちるか、又如何にして牛馬の道から救われるか、今日まで明らかに説き諭した事はないから、だれも知らないであろう」、「この度は、身に障りをつけて、来世の事をこの世から知らしておくから、現れている我が姿を見てよく反省せよ」と解され、牛馬は文字通り牛馬とみなされている。また「来世の事をこの世から知らしておく」とは、今世うけている病気によって、来世牛馬に生まれるかどうかを知らせる、という意味として解されている。

 ところが「だんだんとをんがかさなりそのゆえハ きゆばとみえるみちがあるから」(八、54)のお歌の場合、『おふでさき注釈』によると「恩に恩を重ねたならば、さいごには牛馬に等しい道におちるの外はない」と解され、牛馬は、牛馬に等しいもの、つまり牛馬そのものではなく、牛馬とみえる、牛馬のようなものとして受け取られているのであるから、この場合は人間は牛馬におちないということになる。

 先のお歌の「ぎうば」と今のお歌の「きゆば」の「う」と「ゆ」の文字の違いが、そのような解釈の違いをもたらしているとは、とても思えないが、『おふでさき注釈』による限りでは、二つの解釈が成立するということになる。(もっとも後のお歌の「牛馬とみへるみち」を牛馬のような道と解さず、来世には牛馬になることがみえている道とうけとると、牛馬はあくまで牛馬であるとの先のお歌と同一の解釈とみなすことができる)
 では一体どちらが正しいのであろうか。