2011年10月29日土曜日

No.54 教理随想(5) 出直し(5)

 この判定を自分なりに下す前に、『おふでさき注釈』にのせられてある、牛馬にかんするお歌の実例として説かれたと言い伝えられている話をそのまま引用し吟味してみよう。

 『某女は邪険な性質で、教祖様に数々の御恩をうけながら、お屋敷の前を通っても立ち寄る事さえしなかった。それ程であるから、人々に対してもむごい心遣いが多かった。教祖様は常にそばの人々に「報恩の道を知らぬ者は、牛馬におちる」とも「牛見たようなものになる」とも仰せられた。果たして、某女は、明示七年から歩行かなわぬ病体となり、二十年間いざりのような姿で家人の厄介になってこの世を終わった』

 簡単にまとめると恩に恩が重なり、いざりとなって苦しみ、出直したということになるが、問題は「いざり」となったことの意味、その姿と牛馬とがどのように関わるかということである。
 「いざり」となったことは、単に第一段階にすぎず、来世牛馬に生まれかわって、今までのつぐない、恩返しを無理やりさせられることになるのか、あるいは「いざり」という歩行困難な姿が牛馬とみえる道、「牛見たようなもの」であり、来世も人間として生まれかわることになるのか、そのどちらであるかという点である。

 『おふでさき注釈』によると前者ということになるが、私見によると後者の意味に解するほうが本教の教理より考えて、よいのではないかと思う。
 言うまでもなく、本教教理の根幹は陽気ぐらしで、いんねんの教理も、これに基づいて考えられねばならないが、従来のいんねん論は、どちらかというと、仏教的な因果応報と同じようなものとして、したがって牛馬道も文字通り牛馬道として、忘恩の徒にたいする罰のようなものとしてみなされ、説かれてきたように思う。

 たとえば肺病の人に対しては、肺病の病気によって牛馬の先き道、来世牛馬になることを知らされているのであるから、普通の人間らしい生活を捨て、土間にむしろを敷いて寝ることによって、いんねんの納消はできる、というような諭しがなされ、それなりの布教上の効果をあげてきたと思うが、このような説き方は、本教の教理の根本から少しはずれているように思われる。

 このことは『教典』の一部が改正され、「元のいんねん」(人間は陽気ぐらしができるように創造された)が強調されるようになったことからも言えると思われる。
 「にちにちにをやのしあんとゆものわ たすけるもよふばかりをもてる」(十四、35)のお歌から、忘恩の徒の罰として牛馬に生まれかわらせて、人間に酷使されたり、食べられたりすることが、「たすけるもよふ」であり、親神の慈悲であるとはどうしても思えないのである。

 また「理はみえねど、みな帳面につけてあるもおなじこと、月々年々あまればかやす、たらねばもらう、平均勘定ちゃんとつく」(M25,1,13)の中の「たらねばもらう」には、足らねば牛馬に生まれ変わらせてでも恩報じを強制的にさせるという意味があるのかと考えると疑問に思える。このおさしづはあくまで人間に当てはまるのであれば、「たらねばもらう」には人間として生まれる中に、いろいろの節をみせられることによって、平均勘定をつけられるということではないだろうか。

 このように見てくると、牛馬道とは、牛馬そのものではなく、あくまで人間として生まれながら、牛馬のように人間的自由を失った姿で生きなければならない、という意味であり、それが牛馬そのものと受け取られたのは、本教の草創期に強かった仏教の因果応報の思想の影響によってではないかと思う。

 ところで教内には次のような出所不明の話を論拠にした牛馬論があるが信憑性は極めて少ないと思われる。
『ある日のこと、白牛がお屋敷の前を通った。教祖様はそれをご覧になって、「あれはおかのの生まれ変わりや」仰せられ、かつその牛に近寄って「お前もこれで因縁果したのや」と人に諭すが如くに優しくお話しきかせになった。その後まもなく、その白牛は死んだとの事』(この話については山澤為次氏が『復元』第三号四二頁において、作り話ではあるまいか、と述べている)

 また『天理教校論叢』第二二号に芹澤茂氏の「牛馬考」(この中で人間から牛馬への転生が論証されている)が掲載されているので興味のある方はのぞいてください。

 では諸井政一氏の『正文遺韻抄』の「動物の進歩について」の教祖のお言葉は、どのような意味をもつのだろうか。
「動物の進歩について」のポイントになる部分を引用してみよう。
 「生物は、みな人間に食べられて、おいしいなあといふて、喜んでもらふで、生まれ変わるたび毎に、人間の方へ近うなるのやで。さうやからして、どんなものでも、おいしい、おいしいと言うて、たべてやらにゃならん。なれども、牛馬といふたら、是れはたべるものやないで、人間からおちた、心のけがれたものやからなあ」

 ここには人間から牛馬、牛馬から人間への転生がはっきりと示されているのであるが、これを文字通り受け取れないとすると、一体何が意味されているのだろうか。
 まず西山輝夫氏の解釈をみてみよう。
「私たち人間は生き物を殺して食べることが許されているとはいえ、それは必ずしも無条件ではないのであります。その条件というのは、せっかく、いのちあるものを食べることを許されているのだから、そのかわり、おまえたち人間はそれに十分感謝し、それによって得られたエネルギーをもって互いに助け合って生きるように努力せよ、と親神様はいうておられるように思われます」(『ひながたを身近に』187頁)、「生き物でも何でもそれが親神様のお与えであってみれば、おいしいといって食べることが、物を生かす道であり、自分もまた生かされる道であることを知るのであります」(同頁)

 つまり西山氏によると「動物の進歩」によって、われわれが食べ物にしている生き物への恩が教えられ、その恩返しとして人救け、物を生かす道が示されている、と理解されているが、はたしてこのような意味だけであろうか。
 西山氏の解釈は、極めて常識的ですぐに思い浮かぶ解釈ではあるが、「動物の進歩」にはもっと深い意味があるのではないだろうか。

2011年10月28日金曜日

No.53  教理随想(4) 出直し(4)

さて輪廻の原義は流れること、生あるものがさまざまの形態の生をくりかえすことを古代インドにおいて意味し、それが仏教に入って具体的に五趣(天上、人間、畜生、餓鬼、地獄)あるいは六道(人間と畜生の間に阿修羅が加わる)として転生する世界が明示され、これが業の思想と結びついて、善き行いには来世での善き結果、よりすぐれた人間や天人への生まれかわり、悪しき行いには下等な人間、動物への生まれかわり等々と説かれ、人間に道徳的行為をすすめる積極的な役割とともに、宿命論という消極的な役割をもはたし
後世に至るまで多大の影響をおよぼしているのである。

この輪廻においては、輪廻の輪からの脱出、つまり解脱が人間にとって目指されるべき究極の理想であり、救済の成就と説かれる。
仏教においては、生まれかわる世界が人間界より上等の天上界であっても、それが輪廻の一部である限り、決して永遠に平安な世界ではない、と考えられているので、もはや生まれかわらないこと(生まれかわらなくなった人間は仏陀とよばれるが、それがどのような人間なのか、また生まれかわらなくなった人間はどのようになるのか、仏教において具体的に示されていない。それゆえに生死即涅槃というような考え方がでてくるのであろう)が苦からの解放であり、救済の完成ということになるが、本教においてはこの世に人間が何度も生まれかわりで出かわりしつつ、救済の目標であるこの世での陽気ぐらしに向かって成人していくと考えられている。

本教においては人間創造の目的は、この世における神人和楽の陽気ぐらしの実現であるから、生まれかわらないことが救済の成就である、と考えることは絶対にできないのである。 、

 次に輪廻においては人間から動物(畜生)への転生が説かれるが、本教においては、この問題はどのように、考えられているのだろうか。
 諸井政一著『正文遺韻抄』にのせられてある「人間の数について」を少し長いが引用して検討してみよう。

 「元は、九億九万九千九百九十九人の人数にて、中に、牛馬におちて居る者もあるなれど、此世はじめの時より後に、生き物が出世して人間とのぼりているものが沢山ある。それは、とりでも、けものでも、人間をみて、ああうらやましいものや、人間になりたいと思ふ一念より、うまれ変わり出変わりして、だんだんこうのうをつむで、そこで、天にその本心をあらわしてやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、さういふわけで、人間にひき上げてもらうたものが、沢山にあるで」(153頁)

 ここには動物から人間への進歩(?)とともに人間から動物への退歩(?)が「牛馬におちて居る者」という言葉によって示されていて、人間の数が元の子数より増えている訳が教えられているのであるが、人間が牛馬におちること、牛馬が人間に転生することは文字通りに受け取ることが果たしてできるだろうか。

 言うまでもなく引用した文章は、教祖の御言葉に基づくものであり、後世の人の作り話であるとは、まず考えられないから、問題はそれをそのまま受け取るか、あるいはたとえ話として、当時のいかなる人にもわかる話として、受け取るかであり、どちらであるかは「牛馬におちて居る者」の解釈いかんによる。
 「いままでハぎうばとゆうハままあれど あとさきしれた事ハあるまい」、「このたびハさきなる事を此のよから しらしてをくでみにさハりみよ」(五、1,2)

 この二つのおふでさきの意味は『おふでさき注釈』によると「これまでから牛馬におちる、牛馬におちると説く者もあるが、如何なる者が牛馬におちるか、又如何にして牛馬の道から救われるか、今日まで明らかに説き諭した事はないから、だれも知らないであろう」、「この度は、身に障りをつけて、来世の事をこの世から知らしておくから、現れている我が姿を見てよく反省せよ」と解され、牛馬は文字通り牛馬とみなされている。また「来世の事をこの世から知らしておく」とは、今世うけている病気によって、来世牛馬に生まれるかどうかを知らせる、という意味として解されている。

 ところが「だんだんとをんがかさなりそのゆえハ きゆばとみえるみちがあるから」(八、54)のお歌の場合、『おふでさき注釈』によると「恩に恩を重ねたならば、さいごには牛馬に等しい道におちるの外はない」と解され、牛馬は、牛馬に等しいもの、つまり牛馬そのものではなく、牛馬とみえる、牛馬のようなものとして受け取られているのであるから、この場合は人間は牛馬におちないということになる。

 先のお歌の「ぎうば」と今のお歌の「きゆば」の「う」と「ゆ」の文字の違いが、そのような解釈の違いをもたらしているとは、とても思えないが、『おふでさき注釈』による限りでは、二つの解釈が成立するということになる。(もっとも後のお歌の「牛馬とみへるみち」を牛馬のような道と解さず、来世には牛馬になることがみえている道とうけとると、牛馬はあくまで牛馬であるとの先のお歌と同一の解釈とみなすことができる)
 では一体どちらが正しいのであろうか。

2011年10月27日木曜日

No.52 教理随想(3) 出直し(3)

 では矢島氏によると前生いんねんも否定されることになるのか。
 氏はその問いに対してとまどいを示しながら、「過去の積み上げでもってこの体はできているのですし、また過去の積み上げでもって意識の世界、無意識の世界、心の世界までできているのです。それで今までの経験でもってものの考え方もある程度決まっているのです。」(『ほんあずま』九八号)と一応過去の影響をみとめながらも、「前世、前々世のこと、先祖のことなどは、今の幸、不幸を支配するほど強くは意識の世界にはのぼってこないのです」[この意味はよくわからないが、前世、前々世のことは、幸、不幸にほんのわずかしか影響がない、と理解する]とのべて、前世いんねんを何とか否定しょうとしている。

 氏にとって大切なのは、「現在の心づかいというものは、陽気ぐらしに生きようと思い、助け合いをすれば幸せになれるし反対に殺し合いに借りものを使ったら、途端に不幸せになってしまうほど、幸せ、不幸せを決定的に決める重要な要素なのです」からわかるように現在の心遣いなのであるが、このような議論はよく考えてみると、過去から将来に目を転じさせ、前生いんねんという合理的思考のつまづきとなる問題を巧妙にさけ、常識的な理解へとわれわれを導くだけにすぎないように思われる。
いかに現在の心づかいを強調しても、過去を前提としてなってくる現実(特にわれわれにとって不都合な)をいかにうけとめるかの問題の解決は全くできないからである。
      
・・・後々誰の生まれ更わり言えば世界大変。一つ事情よう聞き分け~~・誰がどう、彼がどう、とは言わん。想像これ一つどうもなろまい。・・・・(M31,4,29
は決して生まれ更わりを否定しているのではなく、誰の生まれ更わりの詮索を制止しているところに、かえって生まれ更わりの真実性が間接的に教えられ、前生が直接的に分からず不透明であることは、親神の慈悲であることが同時に教えられているように思われる。

 したがって氏のような生まれ更わり論は、単に目先の生起する現実にのみとらわれ、なってくる現実の深みにまで入り込まない近視眼的で浅薄なもの、楽天的なものにすぎず、教祖の教えに基づいた見方であるとはおよそ言いがたいと思う。

 次に「出直」は生まれ更わりで、仏教の輪廻と同じように見られやすいが、それと同じものか、違うとすればどの点か、について考えてみたい。
 仏教の輪廻について考える前に、まず八島氏の輪廻観についてみてみよう。
 さて輪廻の教えとは氏によると
「前生よいことをした人間が、よい身分に生まれ、前生悪いことをした人間が悪い身分に生まれて、裁かれた結果できている正しい社会なのだから、上の者はあぐらをかいてのうのうと食っていろ、下の者は食べられないで苦しんでも物を捧げ命を捧げて今生を通りなさい、そうすれば来世よくなるよ、こういうふうに言ったのがこの輪廻の教理であるわけです」(『ほんあずま』)と解され、この考え方はインドのバラモン教に由来するとみなされている。

 バラモン教では人間はスードラ(奴隷)、バイシャ(市民)、クシャトリア(王、政治家、武士)、バラモン(僧侶)の四階級に分かれ、今生たくさんの罪を犯した者は低い身分のところに、ときには動物に生まれ更わり、バラモンに仕えると身分の高いところに生まれかわると説かれ、この教えが仏教に入って輪廻となったと氏は考えるが、氏によるとこのような輪廻の教えは、実在するものでは決してなく、抑圧者が説く差別があっても当然であるという神学に基づく架空のものとみなされている。

 氏にとって輪廻の教えとは、今から約四千年前にインドを占領した白人系の支配者が、自分たちの地位を守るために、社会を乱されれぬように人為的に捏造した教えにほかならないのである。

 氏はさらに日本の仏教にも言及して「日本の天皇制確立に役立たせようということで外国の思想家を呼んだのが坊さんで、彼らは、「身分の差別というようなことを言っていたら本当の幸せは得られないというお経を読みながら、自分たちを雇った人(天皇)からは、身分の違いをはっきり説けと命令され」、その結果、「本来、輪廻からの解脱を説き、差別社会否定の教理を教えるべき坊さんが、輪廻を教え、差別思想を説いてしまった」という極めて歪められた見方をしている。

 なぜなら仏教においては輪廻からの解脱が確かに説かれるが、このことは輪廻が克服されるべきものではあっても、決して実在しないようなものではないことを示すのに、氏は「輪廻というようなことを信じていると、むごい心になってしまう」、「やったら、されるのだ、されたら、仕返しをするのだ、こんな根性の人は、輪廻の通り返しを本気で信ずるわけです」等とものべ、その実在を全く認めようとせず、それを差別思想と考えるからである。

 氏にとって大切なことは輪廻の克服ではなく、輪廻を全く認めないことであり、それゆえ、「因縁話にしても、教祖の教えの中には、通り返しの話、したことがかえってくるとか、前世の何代前の因縁が今でてきて、こんな苦しみをつくっているのだよというようなことは別段説いていないのです。それらの話というものは、四千年も前から説かれていたいわゆる差別社会を守るための高山の説教であったわけです。」という歪んだ見方が平然となされるのである。

 ところで氏のこのような輪廻の教えイコール高山の説教との暴論の根底には、輪廻イコール差別思想の見方があり、輪廻はなるほど差別という価値判断と結びつきやすいものであるが、輪廻そのものは無色の価値中立的なもので、輪廻イコール差別思想との短絡視はできないのではないか。ゆえに輪廻は単なる高山の説教としてむげに否定できないのではないか。

 筆者は
     ・・・生まれ更わり聞き分けば、どんな理も治まる。・・・・( 補遺 M27.5.19
と教示されているので、輪廻(生まれ更わり)に実在を信じる立場に立ち、それを否定すると教祖の教えが成立しえないのではないかと考える。とすれば問題となるのは、輪廻と本教の「出直」、生まれ更わりの相違点である。どこに違いがあるのだろうか。

2011年10月25日火曜日

No.51 教理随想(2) 出直し(2)

 前置きはこのくらいにして、「出直」の教理がわれわれに何を教えるのか考えてみよう。

先に引用したように「出直」とは、「古い着物を脱いで、新しい着物と着替えるようなもの」で、人間は死んでもまたこの世に生まれ更わってくるのであるが、この「着物」は人間が自由に着たり、脱いだりできるものではなく、心にふさわしく貸し与えられるものである。つまり「出直」はまずかしもの・かりものの教理を教えるのである。人間の身体は親神からのかりもので、借りている間は生命を持つが、「出直」によってかりものを返し、また新たなかりものを借りて、新しい生を始めるわけである。
 従って「出直」は、われわれに生命の尊さ、かけがえのなさを間接的に教えてくれるように思われる。

 古来多くの人は、死の問題を論ずるに際して身体と魂を分離し、身体は解体して無に帰すものであるのに対して、魂は不滅で、死によって身体から自由になり、精神的な永遠の生に入る、と考えられてきたのであるが、このような思想はともすると、身体に対する精神の優位を説くあまり、身体を副次的な、それ自身価値をもたないものとして、軽視する危険性をもつであろう。

 これに対して「出直」によって教えられることは、魂は不滅であっても、この世を離れたところに永遠の生を認めず、あくまでこの世に生まれ更わりし、この世における身体的生命が問題とされる、ということであるから、そのような思想とは逆に、われわれに生命の重さ、かえがえのなさを間接的に教示するように思われる。

 本教において「着物」は精神と比べて価値の低いものではなく、親神の十全の守護が入り込んで働いている有り難く尊い存在である。
     ・・人間にわみな神かいりこみ、なにのしゆうごもするゆゑに、人間にまされた神かないことなり。・・・(『神の古記』明治十六年本)と明示されるように、「着物」は人間の精神の足かせとなるようなものではなく、逆に神聖なものであり、「着物」を着せられていることは、「もはや奇跡としか言いようのない出来事である」(池田士郎氏『身体と信仰』)

「出直」によって教えられることの第二点は、これまたかしもの・かりものの教理から派生してくる「心一つが我がのもの」という主体性である。次にこの点について考えてみよう。

 さて人間の生死のパターンについては、死によってすべてが終わるという人生一回説、死後極楽や地獄というこの世からかけはなれた場所での生を認める二回節、死後何度も生まれかわってくるという無限回説の三つに大別することができる。
 人生一回説は無信仰者の常識的な見方で
、二回説は多くの宗教においてみられる死生観であるが、ともにこの世を無前提に考える点において不十分な見方である。

 一回説においては、この世における不平等、不運はすべて不条理とみなされ、ニヒリズムにおちいったり、あるいは刹那的な快楽主義に走ったりして、この世の生を全うできなかったり、二回説においては、この世からの逃避の場所があの世や霊界において空しく求められるだけで、これまたこの世の生を充実させることがむつかしくなる。
 なぜなら両方ともこの世を前世を前提にして考えるのではなく、この世をいわば根無し草のごとく考えるからである。

 これに対して「出直」は無限回説の立場に立ち、前生、今生、来生の時間相において人間を見ることを教えるが、この「出直」によってはじめて人間の主体性が真に成立することになる。主体性とは単に「心一つ我がのもの」としての自由な心遣いを意味するだけではなく、
  なんぎするのもこころから
  わがみうらみであるほどに(十下り七つ)
     ・・たった一つの心より、どんな理も日々出る・・・(M22.2.14
と教示されるように、なってくる現実を自分の現実として真正面からうけとめることも意味するが、人生一回説、二回節においては、この世の生が前生なしに考えられるので、この世の不運の原因が自分以外のものに転嫁されることになりやすく、そこには真の主体は成立しないからである。

 前生において親神は前々生の心づかいと通り方に相応しい境遇を与え、「出直」に際して、一代の清算をされ、その結果がそのまま今生にもちこされて今生の生がはじまり、人生が展開されるのであり、それを認めることによって、ここ世における不条理に光があてられ、この世における救済が可能になるのである。

 このように「出直」よって真の主体が成り立つと言えるが、ここで注意しなければならないことは、出直して生まれかわってくる主体は、前生、今生、来生を通じて同一の主体であるということである。姿、形は当然かわるが、心の持ち主は同じでありつづけるということである。この点がはっきりしないと次のようなおかしな議論になってしまう。

 八島英雄氏の生まれかわり論をみてみよう。 「教祖の生まれかわりの考え方は、ちょっと違うのです。つまり次を生んで、また次を生んでというように教えてくださったので、自分から子供、子供から孫、孫から曾孫というように、だんだんに成長し立派になっていくことを教えられ、そういうふうに生き続けて八千八たびを繰り返したということをおっしゃっているのです」(『ほんあずま』)

 矢島氏は「元の理」の八千八度の生まれかわりをこのように理解し、死後の霊については「教祖のお話はない」、「死んだ人間については何も語られていない」とのべて、その存在を否定している。したがって霊魂不滅を信じないで、親、子、孫へと生命が連綿と続いていくことを、生まれかわりとして解している。このような見方は、輪廻を遺伝子の相続と考え、親、子、孫へと遺伝子が受け継がれていくことを輪廻とみなす解釈(花山勝友氏『輪廻と解脱』参照)においても見られるが、こうなると厳密には生まれかわりとはいえないことになる。

 なぜなら一つの生存が終わり、それを縁として他の生存が始まったというだけでは、前者が後者に生まれかわったとはいえず、生まれかわりとはあくまで同じ主体が、死後再び姿を変えてこの世に現れること、つまり転生を意味するからである。

2011年10月22日土曜日

No.50 教理随想(1) 出直し(1)

「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで。」(『教祖伝』一五二頁)
 
これは秀司さんが明治十四年、六十一才で出直されたときに、教祖が秀司さんに代わられて仰せられたお言葉です。私たちにとって一番気になりながらも、一番理解することの難しい死、出直しについて(『あらきとうりょう』163、164号「出直」について、を加筆、転載)勉強させていただきます。

 哲学者ハイデッガーは、人間を「死への存在」と規定した。これは単に死に向かって進んでいる存在という常識的な意味だけではなく、死とは人事ではない自己の不可避の存在可能性であり、死の自覚によって、それまでの世間に埋没した自己とは根本的に異なった本来的自己にめざめるということ、また常に死を意識し、死の危険が迫っていなくても、自分の死について思いをめぐらし、不安や恐怖にかられる存在である、という意味である。

 人間にとって死は避けることのできない必然的な宿命であるが、死すべきものであるがゆえに必ずしも苦しむわけではなく、死の意味が分からず、不安、恐怖にかられる「死への存在」であるが故に悩むのである。それ故に古来宗教や哲学は「死とは何か」に種々の解答を与え、死を避けることなく、死を人生に積極的に位置づけることによって、死の苦悩から人間を解放しようとつとめてきたが、未だに十全なる解答を提示しえていないようである。

 このことはわれわれを死から守り、死の恐怖をやわらげるために貢献してきたと思われている近代現代医学についても同様である。
 なるほど今まで不治の病が医学の発達により予防されたり、治療法が見出されて完治するようになったり、平均寿命が延びてきたことは周知の通りである。しかしこのことはもろ手を挙げて喜べることとは必ずしも言えないと思われる。

最近話題になっている脳死や臓器移植の問題は、死の時期の観点からすると、前者は死を手前にずらし、後者が死を先へ伸ばすことにほかならず、人間の死が医学によって、矛盾した形で操作されるという不気味な事態であるとらえるとき、「われわれを死から守ってくれると思っていた近代医学が、われわれの死を促進するのではないかという、新たな恐怖を与えるように」(河合隼雄氏『宗教と科学の接点』七七頁)なってきており、死への恐怖が医学の発達によって、逆に強められつつあるのではないか、とも考えられるからである。

 では本教において死はどのように考えられているのであろうか。
 『教典』とおさしづに、
 ・・・・身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもの・・・(七十頁)
     ・・古着脱ぎ捨てて新たまるだけ・・・
                    M26.6.12
と明示されるように、本教では死は肉体の単なる終わりではなく、この世で再び肉体を借りるために再出発すること、「出直」と教えられる。

 ところでこの「出直」は一般には直接に死と結びつかず、最初から改めてやり直すこと[この意味は「こころえちがいはでなおしや」(六下り八ツ)に含まれると思われるが、ここでは省いて考える]を意味するので、本教の用例は他に例をみないのであるが、「出直」が教語として死を意味するようになったのは、みかぐらうた、おさしづ(ここには「出直」は数例しかなく、生まれ更わりが圧倒的に多い)に「出直」の語があるにもかかわらず、決して古いことではない。おふでさきでは「出直」はなく、そのかわりに「しりぞく」、「むかいとり」、「てばなれ」、「かやし」等が使われ、またこふき本にも「はてる」、「クレル(崩れる)」、「しぼす(死亡)」等しか見られない。一体いつから「出直」が死の意味で使われるようになったのか。

 これについては教内において定説がなく、その詮索はあまり意味がないと思う。われわれにとって重要なことは「出直」をどのようにうけとめ、日々の生き方に映していくかであろう。では「出直」の教理はわれわれに何を教えるのか、またそれにまつわる問題は何か、を以下において考えてみたい。

 さて「出直」とは、
     ・・人間というは一代と思うたら違う。生まれ更わりあるで。・・・(M39.3.28
に示される生まれ更わりと同義であるが、この生まれ更わりの事実は、神の存在と同じく経験をこえた形而上的なものであるから、理論的には肯定も否定もできない。従って科学的に証明できず、信じるよりほかないものである。

なるほど岡部金治郎氏のような科学者による推理科学的(氏によると自然科学の成果を重視しながら、自然科学の水準からある程度飛躍した仮定をおいて考えること)な次のような証明も考えられるかもしれない。
 [人間死ねば、肉体は、もちろん滅亡してしまうが、しかし主体である魂の核は、単に状態が変わるだけである。すなわち活性状態から非活性状態に変わるだけであって、魂の核は生き通しのものであろう。・・・魂の核は生き通しのものだから、いつまでも熟睡が続けられるものではなく、いつかは、肉体に宿って、熟睡から醒め、活性状態になろう。つまり、いわゆる「生まれかわり」の可能性があることになろう。](「」人間は死んだらこうなるだろう』五七~五八頁)
 しかしこの説も魂の不滅、生まれ更わりの可能性を示唆する程度で、証明といえるもの
ではないと思われる。

 またトランスパーソナル(超個)心理学において、キューブラ・ロス等によって死後の生が単なる信、神話の対象としてではなく、科学知の対象として強調されたり、レイモンド・ムーディによって瀕死体験や医学的に死と判定された人の奇跡的な蘇生の具体的な事例がうんざりするくらいに多く紹介(『かいまみた死後の世界』参照)されたりしているが、これも人間は死によって無に帰すのではなく、死後の世界があることを暗示する程度で、生まれ更わりの事実を積極的に論証するようなものではない。

 「出直」、「生まれ更わり」とは結局信じるより他ないものであるが、このことは「出直」が非現実的だ、事実に基づかないものであるということではない。

 河合隼雄氏の「科学者はアイ・ノウ(I know)といっていたけれども、それはそれほど確かなことではなく実はアイ・ビリーブ(I believe)なのではないかと考えられます。自然科学というのは絶対性を誇ってきたけれども、そうではなくて、一種のパラダイム、いわゆる自然科学的パラダイムによって世界を見ているというわけです。パラダイムが換われば、違うことがみえるということがある。つまりいままでアイ・ノウと思っていた人たちも、実際はビリーブにかなり規則付けられているのであり、アイ・ビリーブといっていた人も、実はまだまだアイ・ノウといえることがたくさんあるわけです。」(『G—TEN』9号48頁)との指摘をまつまでもなく、信は相対的に過ぎない科学知と同じ地位、否むしろそれを基礎付ける地位にあって、積極的な価値をもつのである。
 従って、科学的に証明されないから価値がない、事実に根ざしていない、ということは決して言えないのである。

2011年10月14日金曜日

No.49 教祖を身近に 連載 第49 三つの宝

教祖を身近に 連載 No.49 三つの宝

「教祖は、籾を三粒持って、
 『これは朝起き、これは正直、これは働きやで。』と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、 『この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。』と、仰せられた。」(『逸話篇』二九)
 教祖は人間生活の指針、生活倫理として、「朝起き、正直、働き」を教示されています。「朝起き」と「働き」について考えてみましょう。
「朝起き千両」、「朝起きは七つの徳」という諺がありますが、教祖はこのような常識的功利的な意味だけではなく、心身にとってもっと大切なことを教えられていると思われます。
 最近の脳科学による眠りや生体時計の研究をみてみましょう。
 人間の体には自律神経、体温、睡眠、覚醒、各種のホルモンなど、およそ一日の周期で変化する様々な生理現象があって、そのリズムはすべて脳にある生体時計からの命令で刻まれています。

 人間の生態時計は両目の奥にある視床下部の視交又上核と呼ばれる部分にあります。この生体時計の一日は二十四時間より約三十分長くなっています。従って睡眠覚醒のリズムは地球時間より毎日三十分づつ遅れていくので、二十四日目になると、体の一日のリズムが昼夜が逆転し、昼に体がいちばん不活発な状態になるということも起こります。しかしふだんこういうことがなく、地球時間と歩調をあわせて生活することができます。これは生体時計の周期を地球の周期にリセット(同調)させる因子があって、中でも朝の光による同調作用が効果的で、脳の視交又上核が毎朝光を認識することによって、生体のリズムを二十四時間になるようにリセットしています。夜ふかしの生活では朝より夜に自然光でない光を浴びることになり、生体時計の周期を長くし、二十五、六時間になり、このズレを夜ふかしをつづけると拡大していき、修正できないようになります。これが「内的脱同調」とよばれる慢性の時差ぼけ状態で自律神経失調症の一つである起立性調節生涯(起き上がると血圧が急に下る)、慢性疲労、抑うつ、活力消耗等の症状となっていきます。

 又朝の光には心を穏やかにする神経伝達物質であるセロトニンの働きを高める作用もあります。この物質は脳内の神経活動の微妙なバランスを保ち、これが不足すると精神が不安定になり、人間関係がうまくいかなくなってくることがわかってきています。 人間は当り前のこと思われるかもしれませんが、朝日を浴び、昼夜は働いたり、活動したりして、夜はゆっくり休むときに持てる能力を最大限に発揮できるように守護されているわけです。 次に「働き」について考えてみましょう。このシリーズNo.44「働く手は」で働く意味について述べましたので、今回はそれを補足して別の観点から考えてみます。

 これまでの労働観において働くことは生きるための単なる手段、生活の糧を手に入れるためにやむをえずしなければならないことや義務とみなされ、働かざる者にマイナスの評価が与えられてきました。これに対して教祖は「人間というものは働きにこの世に出てきたのや」と仰せられたと聞かして頂きますが、このお言葉は人間は働かずにおれない存在で、働くことは生きることと離れず結びついている人間の本性であることを教えられていると悟ることができます。

シリーズNo.44「働く手は」において「人間にとって他者から承認されることは、ほとんど本能的ともいえる根源的な欲求である」という仮説を紹介しましたが、その欲求とともに、人間には贈与に対してお返し、お礼をせずにおれないという本能的ともいえる欲求があるのではないでしょうか。

 人のものかりたるならばりかいるで はやくへんさいれゑをゆうなり 三、28
 このお歌は他人に物を借りたなら利子をつけて御礼を言い、早く返済するようにという常識的な意味の奥に、人の物でも借りたなら利がいる、まして神からの借り物となると、どれだけの利がいるか思案してみよ、という意味があると考えられます。

 人間の身体は親神からの借り物で、それは親神の見返りを求めない絶対的な無限の価値をもつ贈与であると悟りますと、感謝の気持ちが生じ、恩義に感じてお返しせずにおれなくなる、このことが「働き」、働くことの根本にあるのではないでしょうか。

 昨今、世界金融危機、世界同時不況によって、労働環境が悪化し、働くことについての、ひいては生きることそのものについてのシニシズム(物事を正面から立ち向かおうとするのを冷笑する考え方)が人々のあいだにしのび寄ってきているように感じられます。はたらくのは所詮金のためにすぎず、要領のいいやつが勝組となって得をする、正直者は馬鹿をみる社会になっている、つまり働くことが生きがいとならないと感じる若者が増加してきています。 この根本原因として、借り物を自分の意のままに処分できる自分の所有物であり、働くことは生きるための単なる手段にすぎないとの考え方や社会における生産至上主義、能力主義、成果主義が考えられます。

 本教では「身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。」(M2261)と教示されています。

 これは身体は親神からの借り物で、人間に所有権はなく、使用権しかないことと「我が理」として許されています心(自我を含む一切の精神現象)は借り物である身体、いのちに支えられて成立することを意味していると悟ることができます。私のいのちは借り物の身体に宿りますが、それは又親のいのちによって授けられたものでもあります。又社会のいろいろな人のいのちや世界の国々の人々のいのちの営み・働きによっても支えられ、食物(動植物のいのち)をはじめとするいろいろなものによって維持されています。

 それらのお金には換えることのできないいのちの営み・働きによって私が支えられている、また心を使うことができると悟りますと、心の使い方も自ずと制限され、それらのいのちの贈与に対するお礼の心づかい、働きとなってくるのではないでしょうか。

 この報恩としての働きにおいては、職業に貴賎はなく、たとえ家事労働であっても、報恩の心でなされる限り、尊いということになります。

 最後に働きに伴います与えについての神言を紹介しておきます。
 「めん/\年々のあたゑ、薄きは天のあたゑなれど、いつまでも続くは天のあたゑという。」(M21918)「あたゑというは、どうしてくれこうしてくれと言わいでも、皆出来て来る。天よりの理で出来て来る。」(M261128)「欲しいと言うてあたゑはあろうまい。心にたんのう持たねばなろうまい。」(M24520)「渡世商売という/\、一時には良いように思う。(中略)数々商法中にせいでもよいものもある。よう聞き分け。せいでもあたゑ、ならん事すれば理を添えて後へ返える。」(M31629

 格差社会といわれ、与えに関して不平等にみえる現実は確かにありますが、これについては「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。これ聞き分け。」(M25113)とのお言葉を心に治めたいものです。

No.48 教祖を身近に 連載 第48回 本当のたすかり 

教祖を身近に 連載 No.48 本当のたすかり

「あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。」(逸話篇 四七)

 このお言葉は、山本いさが年来の足の身上の御守護を頂いてから、手のふるえがでてきて、中々治らないので、教祖におたすけを願い出たときに、教祖が仰せられたお言葉です。「すっきり救かる」は身上が全快し、病んでいるところがないことを意味しますが、「真実救かる理が大事」、「本当のたすかり」とは何を意味するのでしょうか。

   東本初代中川よしさんのおたすけをみてみましょう。
 中川さんは明治二十五年から郷里の丹波での布教を開始されます。「一人を助けるのに百里を歩く」(丹波、ぢば間を二往復)決心をされ、時には九日間絶食、不眠不休、真冬、真夜中の水行、願いづとめという超人的なおたすけを続けられます。死者が蘇生する等の不思議だすけが続出しますが、東京布教にでて四年後に丹波に帰ったときに、助けられた人々が出直し、道からはなれている姿を見て、大変落胆し、次のような反省をされます。
「私の丹波におけるお助けは間違っていた。私は、助かって貰いさえすればよいという考えから、身上助けばかりしていて、精神を救うということに気がつかなかった。そのためにこんなことになった。可哀想なことをしてしまった。私が間違っていた」
                        (『中川よし』三五〇頁)
 ここで述べられている「精神を救う」ことへの布教方針の転換は、身上だすけをしたことが間違いであったからではありません。

 信仰とは心、魂の救済が本義で病だすけは大切ではない、病だすけを標榜する宗教は低級であるとう見方がこれまでも、否現在でも根強く残っています。従って「精神を救う」とは身上助けをやめて、心の救済のみを目指すように思われますが、決してそうではありません。

 心身問題(心とは何か、心身はどのように結びついているのかという問題)は現在でも哲学上の難問の一つといわれています。心身は一如、一つのものとみなしますと、身体をはなれた心、精神だけの救いというのは意味がないと考えられます。教祖は「すっきり救かる」つまり病だすけに対して、心だすけ、「精神を救う」を対置されるのではなく、「真実救かる」つまり心身ともに救かることを教示されています。「真実救かる」、「精神を救う」とは具体的に何を意味するのでしょうか。

 まず第一に、前生いんねんが悟れるようになることです。教祖は手のふるえ、生活に支障のない身上が残っていることによって、「前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで」と仰せられています。今生における通り方、心づかいの反省だけでは不十分で、前生(信じることは難しいのですが、出直しが本当に胸に治まるとき、出直してこの世に帰ってくる自分からみると、今の自分は前生の自分ということになります)を視野に入れた反省、さんげが不可欠となります。

 第二に神恩がわかるようになり、恩報じができるようになることです。東本初代は次のように述べています。「世の中は、恩を受けることに我ままとなり、恩を果たすことに気ままになっている。これでは、日本の国どころか、自分の身が、精神が持たぬこと当然である。金儲けを教える学校はあっても、果たしを教える学校はない」(三五一頁)

 問題となるのは、何に対する報恩かということです。

     「大恩忘れて小恩送るような事ではならんで。」(M3424

                         と教示されています。
 これは人への小恩にとらわれて、神への大恩を忘れてはいけない、と解されますが、それだけではなく、神恩にも大恩、小恩があって、救けられるということは小恩で、生かされている、身体をお借りしているということが大恩であることを教えられているのではないでしょうか。

 病気を助けて頂くということは御守護であることは言うまでもありませんが、救けて頂いて元の健康な身体に復すことよりも、生かされていてその健康な身体をこれまでずっと維持して頂いていることの方がはるかに大きな御守護と言えるのではないでしょうか。病気になってはじめてその大恩に気づき、それへの報恩のたすけ一条の心定めをすることによってつとめ、さづけによって救けて頂けるのではないでしょうか。すっきり救かっていなくても、真実助っていることが成立するのも、この大恩への生涯末代の報恩の念があるからと考えられます。

 第三に病の見方がかわり、病を御守護の一つの姿とうけとれるようになることと思われます。
 本教では病の元は悪霊、怨霊のような外来のものではなく、あくまでも各自の心であると教えられるとともに、病は神の残念立腹、急き込み、よふむき(用向き)、意見、みちをせ(道教え)、手引き等と教えられていますが、又「ていり」(手入れ)とも教えられています。残念立腹は一見キリスト教の神の怒りのようにうけとれますが、そのあとに「心しだいにみなたすける」、「ふんばりきりてはたらきをする」(十五、1617)と示され、神の愛の発動であることが分かります。急き込み、用向き、意見、道教えは病は神からのメッセージであり、それが正しくよみとれることがたすかりであると悟れますが、では「ていり」とは何を意味するのでしょうか。

          これをみよせかいもうちもへたてない


          むねのうちよりそふぢするぞや

          このそふぢむつかし事であるけれど


          やまいとゆうわないとゆてをく


          どのよふないたみなやみもでけものや

          ねつもくだりもみなほこりやで    (四、108110

 三番目のおふでさきは、病の元が埃であることを単に示しているように思えますが、前の二首をよくみますと、病とは「そふぢ」(掃除)でもあること、つまり病によって神が埃を掃除して下さっていること、それが「ていり」であることを教えていると悟ることができます。「やまいとゆうわない」とは病そのものがないという意味ではなく、病は神による強制的な埃の掃除で、忌避されるものではなく、痛みの伴う御守護である、ということではないでしょうか。このことはガンを例にとりますと医学的には次のように説明されます。

 石原結実氏は『病気にならない生活のすすめ』の中で「ガン性善説」を唱えています。「ガン細胞は血液の汚れを処理し、血液をきれいにしている。ガン細胞も白血球と同様に身体のなかにたまった老廃物を処理するために必要で、浄化装置が手術で取り払われたら、生きている限り、新しい浄化装置をつくる、それが転移と考えられる」(四八~四九頁)

 第四に、「めづらしたすけ」が究極のたすけであると悟れるようになることです。

          たん/\と神の心とゆうものわ


          ふしぎあらハしたすけせきこむ   ( 三、104)

          たすけでもあしきなをするまてやない


          めづらしたすけをもているから    (十七、52)

 本教の救済において、不思議だすけと「めづらしたすけ」が明確に分けられています。前者はガンが救かる等のたすけで、後者は「病まず死なず弱らん」、「百十五才定命」のたすけで、このたすけの条件として、埃を完全に払うことが求められます。逆に考えますとこの「めづらしたすけ」が実現していない限り、埃は残っているということになります。生かされている大恩への報恩をたすけ一条の御用を通して生涯末代続けさせて頂くことによって、前生からの埃が少しづつ払われ、日々「陽気づくめの心」で通れるようになる、これが「真実救かる」、「本当のたすかり」であると悟らせて頂きます。

          ことしから七十ねんハふう/\とも


          やまずよハらすくらす事なら

          それよりのたのしみなるハあるまいな


          これをまことにたのしゆんでいよ    (十一、59 60

No.47 教祖を身近に 連載 第47回  教祖のお出張り

教祖を身近に 連載 No.47 教祖のお出張り
「針ヶ別所、平等寺、三昧田へのお出かけは、元のぢばを正し、かぐらづとめをお教え下さるためと拝すれば、安堵村、大豆越村、若井村、教興寺へのお出かけは、親神様の思召をお広め下されるためのにをいがけ、おたすけと思案させてもらうことができると思うのと、円照寺、県庁、警察監獄へのお出かけは、言うまでもなく往還道をおつけ下されるためなのであります。いわばこの三つはいつでも合図立て合うて、密接なつながりをもちながら、道すがらに現れているのであります」(『みちのとも』昭和五十七年十二月号十五~十六頁)
 
真柱様は教祖の五十年のひながたにおけるお出張り(お出かけ)を一、元のぢばを正し、かぐらづとめを整える、二、にをいがけ、おたすけ、三、往還道をつける、という三つの目的に分けられ、いずれもたすけ一条という観点から密接なつながりをもつことを指摘されています。

 教祖が月日のやしろとなられた天保九年から文久年間までは確かなお出張りの史実は明らかではありませんが、嘉永七年にをびや許しを出されてから、「重病人があって頼みに来ると、教祖は、いつもいと快くいそ/\とお出掛けになった」(『教祖伝』四二頁~四三頁)と記されていますので、お出張りが始められます。
 『教祖伝』には教祖自らの具体的なお出張りが文久二年安堵村の産後の煩いのおたすけに始まり、明治十五年六月十八日~二十日教興寺村松村栄治郎宅へ、まつえの姉さく身上のおたすけまで十一回記されています。

 そして教祖の召喚、拘留については十三回あります。自らのお出張りと官憲による召喚、拘留とは意味は異なりますが、教祖が拘留されることも「神のをもハくあるからの事」(五号 59)で、強制されたものではなく、自発的、自主的なものと考えますと、お出張りの一種と考えることができます。
 教祖は一体なぜ警察、監獄署にお出張りになられ、御苦労下されたのでしょうか。
 十三回の召喚、拘留、留置を列挙してみましょう。
 明治七年十二月二十三日奈良県庁の呼出しで山村御殿へ。
 
明治八年九月二十五日~二十七日奈良県庁の呼出し、取調べ、三日間留置。二十五銭の科料。
 
明治十四年十月七日丹波市分署へ拘引。五十銭の科料。
 
明治十五年二月奈良警察署から呼出し。二円五十銭の科料。
 
明治十五年十月二十九日~十一月九日奈良警察署へ呼出し、奈良監獄署へ十二日間拘留。
 
明治十六年八月十五日~十六日雨乞づとめの後、丹波市分署へ連行、徹夜留置。

 明治十六年十月十六日尋問の筋ありと引致。
 
明治十七年三月二十四日~四月五日丹波市分署へ拘引し、奈良監獄署に十二日間拘留。

 明治十七年陰暦四月二十五日~二十七日警察署へ連行し、三日間留置。

 明治十七年陰暦五月二十五日~二十七日  陰暦六月二十五日~二十七日いずれも警察署へ連行し、三日間留置。
 
 明治十七年八月十八日~三十日丹波市分署に拘引し、奈良監獄署に十二日間拘留。

 明治十九年二月十八日~三月一日櫟本分署に拘引し、十二日間拘留。
  以上が『教祖伝』に記されている官憲による教祖の召喚、拘留、留置で、計十三回ですが、これが十七、八回といわれたりするのは、分署から監獄署へ移られるときに、二回として数えられるためかもしれません。

 明治十九年の拘留はいわゆる「最後の御苦労」で、このシリーズのNo.22に私見を述べましたので、ここでは明治十五年十月の御苦労について考えてみたいと思います。『正文遺韻抄』に「九月十八日事件」(二〇四頁)と題された一節があります。
 十月二十九日は陰暦の九月十八日で、九月九日夜に次のような神様のお話があります。「さあ/\、屋敷の中/\、むさくるしいてならん/\。すっきり神がとり払うで/\。さあ十分、六だい、何にも云う事ない、十分八方ひろがるほどに、さあ、このところ下へもおりぬもの、なんどき何処へ神がつれてでるやしれんで」
 
九月十七日夜「明日出頭せよ」、との召喚状が留きます。本席様に御伺いしますと神様からの次のようなお話が下ります。「さあ/\、何にもあんじる道やない。さあこれで、すっきりねをからしてしまふた。これでこそ、もう、ねが絶えたかと、かみにも思ふてゐる。思ふ心が違ふから、さあ根さきから芽がふく/\、西も東も北も南も、さあ、一枚板になってきたとの事や、さあ、しっかりきいておくがよい」
 屋敷の中のむさくるしいものを神が取り払うとは、具体的には明治十五年十一月八日に蒸し風呂の廃止、十二月十四日地福寺引払いのことと思われます。この地福寺引払いとは、明治十三年九月二十二日に開筵式をした地福寺(真言宗)の配下にある天輪王講社を廃止することで、これは教祖が最初から「そんな事すれば、親神は退く」と言われ強く反対されていたものですから、当然のことといえるでしょう。

 では「十分八方ひろがる」、「なんどき何処へ神がつれてでるやしれんで」とは何を意味するのでしょうか。「すっきりねをからしてしまふた」、「もう、ねが絶えた」とは官憲が八十五才の教祖を拘留することによって、本教の勢いが止まってしまう、と考えますと、そのようになっていくどころか反対に、「根さきから芽がふく」、「一枚板になってきた」、つまりたすけ一条の上に親神、教祖がより働かれ、教勢がのびていくことを意味しているように思われます。官憲は教祖をいくら拘束して、身動きできないようにしても、教祖は現身をもたれたままで、「存命の理」としてのお働きをされる、つまり教祖が留置されていても、御魂はたすけ一条の上に働かれ、さづけを通しての不思議だすけをみせて頂くことができる、ということを明治十五年十月の御苦労を通して私たちに仕込まれたのではないでしょうか。

 明治七年十二月二十三日山村御殿への召喚に始まる教祖の御苦労は「高山から世界に往還の道をつけるにをいがけ」(『教祖伝』四二頁)、高山布教で、「此処、とめに来るのも出て来るも、皆、親神のする事や。」、「親神が連れて行くのや。」(同二九〇頁、『逸話篇』一五四)と教示されますように、官憲による受動的なものではなく、逆にたすけ一条の主体的な働きかけと教えられますが、これとともに「存命の理」を教えるためとも悟ることができます。「とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや。」(同二九〇頁)の「埋りた宝」を「存命の理」と考えますと、教祖を拘束することによって、たすけ一条の道が妨げられるどころか、逆に教祖は「存命の理」として御魂は身体的制約をはなれて、自由自在に世界だすけに飛翔されるということを「埋りた宝を掘りに来る」という言葉で私たちに教えられているのではないでしょうか。
 教祖は御苦労が始まってから、より強くつとめを急き込まれるようになります。つとめとは「人間創造の真実の親たる親神・天理王命の理がこもる」(『教祖伝』二〇八頁)もので、つとめの勤修によって、親神が勇まれ不思議だすけを見せて頂くことができます。

 教祖の御苦労は一見しますと、親神の教え、思召のわからない官憲によってもたらされた、たすけ一条を妨害するものと思えますが、「西も東も北も南も、さあ一枚板(岩?)になってきた」の「一枚板」を親神、教祖のつとめと「存命の理」を通しておお働きが一体となることで、それによって世界だすけが加速されると解しますと、私たちに改めて「存命の理」の意味や、つとめの大切さを教えるための御苦労でもあると悟らせていただけるのではないでしょうか。

No.46 教祖を身近に 連載 第46回  応法の問題 

               応法の問題

「明治十三年九月二十二日(陰暦八月十八日)転輪王講社の開筵式の時、門前で大護摩を焚いていると、教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、赤衣をお召しになったままお出ましなされ、お座りになって、一寸の間、ニコニコとごらん下されていたが、すぐお居間へお引き取りになった」(『逸話篇』七三

  今回は五十年のひながたにおける応法の問題について考えてみましょう。

 応法については秀司先生の場合と、明治十四年以降の教会公認運動に分けて考えられますが、ここでは秀司先生に関する応法だけを考えてみます。
 秀司先生についてみますと、二つの一見すると両立しないような教祖に対する態度がみられます。どこまでも教祖の仰せに素直に従う面と、思召に背いてまでも貫徹しようとする姿勢であります。前者については『教祖伝』に散見され、問題はありませんので、後者について検討してみましょう。

 慶応二年秋、小泉村(大和郡山市)の不動院の山伏達がお屋敷に乱入し、乱暴狼藉を働くという事件があります。同じ日に山中忠七宅へものりこんで、乱暴を加え、その足で古市代官所を訪ね、公許なしに信仰活動をしているとして、お屋敷を訴え出るに至ります。代官所での事情聴取では不都合な点はすこしもなく、公許を得ていない点だけが問題となったため、秀司先生は、当時神道界に絶大な権威を保っていた京都にある吉田神祇管領に願い出て、七日間かかって慶応三年七月二十三日付で許可を得ることができます。しかしこれは本教の公認というものではなく、単に神道の行事を百姓の身分のまま行うことのできる許可にすぎません。
 
教祖はこれに対して「吉田家も偉いようなれども、一の枝の如きものや。枯れる時もある」と仰せられ、反対されています。
 三年後の明治三年、吉田神祇管領は廃止され、公認は無効になってしまいます。教祖はその公認の間に、慶応二年から明治三年の間に、かぐらづとめの第一節、一下りから十二下り目のみかぐらうた、第二節、よろづよと順次教えられます。

 明治八年民権運動の高まりの中、許可のない集会活動などに対する官憲の目が厳しくなりはじめ、九年には個人の邸宅内に神仏をまつり、他人を参拝させてはならないという法律がだされ、人々のお屋敷への参拝もままならないようになってきましたので、秀司先生は大勢の人が寄り集まる口実のために、表向き風呂屋と宿屋を営むこととし、堺県へその鑑札を受けにいき、明治九年春の初め頃許可を得ます。

 これに対して教祖は「親神が途中で退く」と厳しくお止めになり、明治九年、蒸し風呂に薬種を用いたとの疑いで、秀司先生は三十日間の拘留に、翌年には村人の根拠のない密告によって四十日間の留置に処せられます。
 風呂屋、宿屋は教祖が「親神が、むさくるしいて~~ならんから取り払わした」と仰せられ、秀司先生の出直し後、明治十五年十一月八日、十四日にそれぞれ廃業されることになります。

 明治十三年になり、教祖はおつとめの完修を急き込まれるようになられますが、政府から集会条例が出され、官憲の監視が一段と厳しくなってきます。そこで秀司先生は元々修験道系で、明治になって真言宗に所属するようになった公認宗派の金剛山地福寺に願い出てその配下になる決意をし、九月二十二日転輪王講社の開筵式を行います。(地福寺とのつながりは、明治十五年十二月十四日付で切れてしまいます)

 これに関して八島英雄は「教祖亡き後、自分が頂点に立つ教会を組織し、人々をその傘下に結集させ、中山家の安泰を計るにはどうしても高弟達の協力が必要でした。そこで秀司は、教祖が最初から使っている仏教系の天輪王という神名を使おうと考えました」(『研究ノート』205頁)と述べていますが、このような見方は全くの見当はずれで、この応法はあくまでも政府の弾圧をのがれ、教祖を守ろうとする窮余の一策であると思われます。

 この応法の行為に対して教祖から「そんな事すれば、親神は退く」と厳しく仰せられます。また教祖は開筵式の八日後の九月三十日、初めて三曲をも含む鳴物をそろえてのおつとめを応法を雲散霧消させるべく敢行されています。この教祖の反対の中、あえて応法にふみきったのも、神一条にそわない単なる人間思案のゆえではなく、中山家の戸主として誰よりも母親である教祖の御身の安全と人々の無事を願い、たとえ我が身はどうなってもとの命をかけての強い決意からであったと思われます。

 このように考えますと、秀司先生の教祖に対する一見対立するような態度は、一つの親を思う心から発するものとして受け取れるのではないでしょうか。

 ところで秀司先生は転輪王講社の開筵式を終えて間もなく、その年の暮れから身上がすぐれなくなり、翌十四年四月八日六十一才で出直されます。教祖は秀司先生の額をなでて、「可愛相に、早く帰っておいで」と長年の労苦をねぎらわれ、秀司先生に代わって、「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで」と仰せられます。この出直しはどのように受け取れるでしょうか。
 秀司先生は教祖の言われる神一条のお言葉に何度も背いたゆえに出直されたと一見思われます。「親神は退く」を出直すことと受け取ると、そのように受け取れます。

          みのうちにとこにふそくのないものに

          月日いがめてくろふかけたで
                          (十二、118)
この意味は『おふでさき註釈』に「秀司先生は、もともと身体に何処も故障が無いのに、旬刻限が来て親神様がこの世に天降られる機縁の一つとして、わざわざ秀司先生の足に患いをつけられた。この身上がたすけ一条のための試しであり、親神様の御意図に基づくものである」と説明されています。

 また秀司先生ついては「32、つきよみハしゃちほこなりこれなるハ にんげんほねのしゅごふのかみ 33、このかみハとふねん巳の六十と いゝ才にてぞあらハれござる」(『和歌体十四年本』山沢本)と教示されますように、元の理における月よみのみことの御魂のお方といわれています。
 
 ということは秀司先生の出直しも、神の思いにそわない埃や因縁、「ふそく」によるものではなく、出直しに至るまでの応法の道を含む通り方も、親神、教祖が神一条やたすけ一条を私たちに教えるために、試されたお仕込みやたすけの台という意味をもつのではないでしょうか。教祖は神一条、つとめ一条をより際立たせられるために、応法の道を一時的に黙認され、親神の思いをそのあとすぐに実現していくようにされたと思います。

 真柱様は次のように述べられています。
「いまの日本では、なんの懸念もなく、おつとめを勤めることができます。しかし神一条と人間思案の葛藤は、いろいろなところで現われてくると言えるでしょう。法的な制約はなくとも、あれがあるから難しい、これがあるから仕方がないと、目先の対応にばかり心を奪われていると、ついには根本を見失い、本来の姿から大きく逸脱してしまうことにもなりかねません。これはお互い心しなければならないことであります」
                  (立教一七一年春季大祭神殿講話)

 応法の問題は、教祖が御在世中の過去のことではなく、今の私たちにとってのものでもあり、存命の教祖から日々の生き方において、節に出会ったときに返答を求められている問題でもあると言えるのでないでしょうか。

No.45 教祖を身近に 連載 第45回  親孝行 

親孝行

「あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで。」(『逸話篇』六二)
「救からんものを、なんでもと言うて、子供が親のために運ぶ心、これ真実やがな、真実なら神が受け取る。」(『逸話篇』十六)
「親孝心、又家業第一。これ何処へ行ても難は無い」(M35,7,13

 親子断絶、家庭崩壊が叫ばれるようになり、親子間の殺人事件が増加しつつある昨今、親孝行は封建的な倫理にすぎず、もはや死語となりつつあるものにすぎないのであろうか。まず孝の意味について考えてみましょう。

 親孝行という言葉は儒教の「孝」の一つの重要な要素であり、古代中国において「孝」は先祖をまつってその志を受け継ぐことで、先祖祭祀と関わる徳目と考えられていました。先祖の志を伝える人は親に他ならないので、親によく仕える、孝行すること〔「大孝は、終身、父母を慕うなり」『孟子』「大孝は親を尊ぶなり」『礼記』〕が「孝」の一番大切なこととみなされたわけです。
「孝」は儒教倫理の中心となる思想で、現代でも中国において、親孝行は重要な徳目となっています。

 仏教は元来出家の教えで、家を出て、家族の絆を断つことによって救済が説かれますので、本来先祖供養や親への孝行は考慮されないことになっていますが、儒教の影響を受けて中国ではインドにはない「偽経」である「父母恩重経」(父母、特に母親の恩がいかに広大なものかを説いて、親孝行をすすめる内容)等がつくられたりして、仏教説話においても、最近では親孝行が説かれるようになっています。

 キリスト教においては仏教において否定されている愛が強調され、個人は家族をこえて、直接的に神と関わることになりますので、親孝行などは「私がきたのは、人をその父と、娘とその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである」(マタイ、十章35)「私より自分の父や母を愛する者は私にふさわしくない。私よりも自分の息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイ、十章37)と述べられていることからもわかりますように、批判的に考えられています。

 現在の日本において親孝行が軽視されている原因は、家族観の変化と個人主義にあると思われます。日本の現代の家族は法的には個人としての男女の結びつきに基づく夫婦を柱とするもので、これまでの親子関係を柱とする家族とは根本的に異なります。後者では必然的に子孫という生命の連続や先祖祭祀を前提とするのに対して、前者では夫婦の幸福が優先されることになり、核家族化しやすくなります。このために親子の絆が弱くなったり、先祖からの生命のつながりの意識がうすくなったりしやすくなります。

 また個人は西欧では家族をこえて直接的に神に関わるのに対して、日本ではキリスト教のような唯一絶対の神をもたない以上、個人は神を畏れることなく、宙に浮いた存在となり、必然的に利己的な存在になってしまいます。日本人の深層意識では親子中心の家族観をもっていながら、現実生活においては西欧の物まね個人主義に基づく夫婦中心の家庭生活を送っていることから、様々な親子問題が生じてくることになり、親孝行も衰退していくように思われます。

 本教では親孝行(心)はどのように考えられているのでしょうか。
「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで」(『逸話篇』一〇四)本教では神は親なる神で、紋型ないところから人間をつくられたばかりでなく、今も十全の守護をもって、子供である私たちの身の内に入り込み、陽気ぐらしができるように親心をこめて日夜お守り下さっています。

    月日にハせかいぢうゝハみなわが子    

    たすけたいとの心ばかりで      (八,4)

    にち~~にをやのしやんとゆうものわ

    たすけるもよふばかりをもてる
                     (十四、35)
 従って本教の親孝行(心)は、本質的には親神の親心、御恩にお応えすることで、この一つの具体的な行為が、肉親の親、理の親への孝行ということになります。この両者への孝行が親神への報恩の心からなされるとき、親孝行が真に全うされることになります。

 ところで本教の親孝行はさらに広い範囲をもつもので、親神から見て、兄弟姉妹である人間がたすけあうことが、親神の願い、頼みであり、それに応えることが、両親への孝行とともに大切な孝行であると考えられています。

     なさけないとのよにしやんしたとても 

     人をたすける心ないので    (十二、90)
 
     これからハ月日たのみや一れつわ

    心しいかりいれかゑてくれ   (十二、91)

    この心どふゆう事であるならば

    せかいたすける一ちよばかりを
                   (十二、92)

 次に「親孝心、家業第一」の意味を考えてみましょう。三十才未満の人への「おかきさげ」に次のように諭されています。
「日々には家業という。これが第一。又一つ、内々互い~~孝心の道、これが第一。二つ一つが天の理と諭し置こう」

「内々互い~~」を親子の相互のあり方とかんがえますと、これは「家業」とは現代では道一条を含む仕事一般のことで、親子ともに生かされている喜びを感じて、仕事を通して世のため、人のために働く、また子が親を慕い、親が子に親心をかけ成人へと導くことで、仕事と親孝心が親神を介して、報恩、たすけ一条につながって、一つになることを意味しているのではないでしょうか。

「皆、をやの代りをするのや。満足さして連れて通るのが親の役や」(M21,7,7)と教示されています。両親、理の親が子に対して「満足さして」「をやの代り」をして子の丹精をする、子は親の恩に報いるべくつとめる、これが「互い~~孝心の道」の意味ではないでしょうか。

 また次のようなおさしづがあります。
「今日も機嫌好う遊すんでくれたなあというは、親孝行~~と言う」(M37,3,29
 親孝行が二回もくりかえされ、しかも親孝行と「遊すんでくれた」、遊びが結び付けられています。「陽気遊び」「よふきゆさん」(十四、25)「よふきなるゆさんあすびさしますと 月日さまよりやくそくをなし」(和歌体十四年山沢本)という人間創造の目的に「遊び」を明示する言葉もあります。

 親孝行と「遊び」の結びつきについては、次のような悟りもできるのではないでしょうか。
 陽気について「神が連れて通る陽気と、めん~~勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。」(M30,12,11)と諭されています。
 また「陽気遊びとは、目に見えたる事とはころっと格段が違うで。」(M23,6,20)とも教示されています。
 「遊び」とは労働と対立するような行為の形式、内容ではなく、あくまでも心の問題で、自由な心、執着のない心、真実の誠の他人を思いやる心、陽気な楽しい忘我の心等を意味するのであれば、それらの心が親の思いにかなった、親に喜んで頂ける心であり、そのような心で日々生活することが、親孝行につながることを教えられているのではないでしょうか。

「難しい道はをやが皆通りたで。をやの理思えば、通るに陽気遊びの理を思え」(M21,
10,12)