2011年10月12日水曜日

No.40 教祖を身近に 連載 第40回  慎 み 

慎 み

「慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に。」(M25.1.14)「慎みの心が元である。」(M28.5.19)「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。」(『逸話篇』一三八)
 
教祖百二十年祭に向けた統一標語の中に、陽気ぐらしのキーワードとして「感謝、たすけあい」とともに「慎み」があります。たすけあいと比べて消極的で、古臭いような印象のある言葉ですが、現代において見失われつつある価値をもつもので、村上和雄氏は「慎みこそ、新時代の人間のライフスタイルをつくり出し、陽気ぐらし文明を構築していく重要な柱の一つになる」(『みちのとも』立教一六九年十一月号)と述べています。
 
氏は生命科学の立場から、昭和六十年の科学万博で話題となった一粒の種から一万個以上の実をつけたトマトを例にあげ、「慎み」を説明しています。トマトには土をつかわない水気耕栽培によって、一粒の種から一万個以上の実をつける潜在能力はあっても、自然界には生物相互の関わりあい、生物と自然との関わりあいの中で、最適規模、最適値が微妙なバランスのもとに保たれているので、ふつうは多くても十数個の実しかつけない、つまり慎んでいると考えられます。もしすべての植物が持っている潜在能力を無限に発揮したら、自然の生態系は崩れ、生物の存在、人間の存在が危機に瀕するかもしれません。土という自然の力によって植物の世界は適正な規模が守られているわけです。
 人間のDNAにおいても、実際に遺伝情報として使われているのは全体の二,三%にすぎず、複雑な生命体ほど無駄と思われる部分を多く内包していて、環境の変化に柔軟に対応している、と氏は述べています。
 
また氏は『科学技術を発達させ、際限なく生産の拡大をはかるだけでは、人類はいつしか行き詰る。それは、次の世代が与わるはずの「とりめ」をいまに食い潰す行為にも等しい。遺伝子の世界からいえば、驕り高ぶる「利己的遺伝子」の暴走をコントロールし、自分以外の他者のために生きる「利他的遺伝子」のスイッチをオンにしなければ、人類の未来は開かれない。そのキーワードが、ほかならぬ「慎み」なのである。』という提言を力強くされています。

 次に「慎み」の教理的な根拠についてみてみましょう。
「たん~~となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ」(三、40,135)このお歌の「神のからだ」を神の生命と考えますと、人間の身体のみならず、この世の一切のものは神の生命を分け持つものであるゆえに、神聖で、無限の価値をもつ尊いもの、絶対に無駄にすることの許されないものと言うことができます。
 
キリスト教の新約聖書に次のような一節があります。「栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日には炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さる」(マタイ六章、二九、三十)神の無限の慈愛に気づき、目覚めるとき、巨億の富もその価値を小さくし、野の花の価値にも及ばないものになってしまう、この価値の転換において、真に慎む心が自然と生まれてくるように思われます。
 
また与えについて次のように教示されています。「天のあたゑというは、薄きものである(中略)薄きは天のあたゑなれど、いつまでも続くは天のあたゑという」(M21.9.
18)「どんな所で住むといえども皆あたゑだけのもの」(M23.12.17

 現在私たちは科学技術文明の恩恵に浴して余りにも恵まれすぎた生活をしていますが、その生活が陽気ぐらしにむすびついていないのは、「天のあたゑ」を無視した強欲の埃が知らないうちに積もり重なっているからではないでしょうか。
「なにごともごふよくつくしそのゆへハ 神のりいふくみへてくるぞや」(三、43)
 次に「慎み」の実践について考えてみましょう。

 教祖は物に関してよく「慎み」を教えられています。「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」、「すたりもの身につくで。いやしいのと違う」(『逸話篇』一一二)
 また他の人への言葉遣いについても「あいそづかしや、すてことば、切口上は、おくびにもだすやないで」(『正文遺韻抄』七八頁、「神に切る神は無い。なれど切られる心はどうもならん。仇言にも捨言葉は大嫌い」(M24.1.28)「言葉一つが肝心。吐く息引く息ひとつの加減で内々治まる」(『逸話篇』一三七)等によって言葉の「慎み」を教えられています。
 
では教祖は「慎み」によって私たちに清貧の思想や生き方、人を傷つけないというような消極的な通り方を単に教えられたのでしょうか。
 「清貧」という言葉には、貧しいことは清らかなこと、お金、富は卑しいもの、という考え方が根底にあります。キリスト教の新約聖書の「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことであろう。富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(ルカ十八章、二四、二五)という一節に明確にみられますが、貧と富とは、必ずしも貴賎、尊卑に結びつかず、逆になるケースも考えられます。

 教祖は「慎み」によって貧そのものを価値あるものとして教えられ、奨励されたのではなく、物への執着(この本質は自己への執着)や我欲、高慢の埃を取り去ることによって、与えや成ってくることを喜び、物、人を生かすこと、つまり「物だすけ」、人だすけ(「人間の反故を作らんようにしておくれ」『逸話篇』一一二頁に教示されています)に価値を見出すことを教えられたのではないでしょうか。
 
道元禅師の言葉を記した『正法眼蔵随聞記』に次のような話があります。栄西僧正が家族が餓死寸前の貧乏人に乞われて、仏像の光背を造るための材料の銅を与えたとき、門弟から「仏物己用の罪」(仏のものを私用に使う罪)を問われます。その時僧正は「仏意(仏の心)を思ふに仏は身肉手足を割きて衆生(人々)に施せり。現に餓死すべき衆生には設ひ(たとえ)仏の全体を以て与ふるとも(与えても)仏意に合ふべし(当然かなうでしょう)」(第二の二)と答えています。

本教の立場で考えますと、この世の一切のものは「神のからだ」、「仏(神)物」で、生きるということは「仏(神)物己用」と考えますと、「仏()物」を「己用」するだけではなく「他用」(人のために使う)「共用」(みんなで使う)することが神の思召にかなうことになり、このことを「慎み」によって教えられているのではないでしょうか。
 
「慎み」とはこのように考えますと、極めて積極的なたすけ一条につながる意味をもつものと思案することができます。
「めん~~心に慎むという理を治めてくれ」(M30.4.18

1 件のコメント:

  1. 慎みが理や、と言うおさしづがあるのと別に、
    遠慮は埃やで、と言うおさしづのお話があります。
    慎みと遠慮は似たような意味に使われる言葉なので、片方が理で片方は埃ってどういう事なんだろう?と思い、助け一条に通って居られた高田吉郎先生に伺ってみた事があります。

    慎みと言うのは、自分の程度を自分で理解して居る状態で、だから感謝し報恩のご用を何でもさせて貰おうと思い、
    神様のご用で人を助けるに当たっては遠慮は要らない、
    そう言う事でしょうね、と言う話でとても納得出来ました。

    神様のお話の内容、おさしづの話っていうのは、一般的な言葉の意味とは少し違って、神様が居て、常に世界を助けたいのが前提なんだろうなぁ、と自分は感じています。

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